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保坂和志「未明の闘争」の文庫が出た

保坂和志「未明の闘争」が文庫化された旨のことをtweetされていた方がいて、その人は特にうめずかずおの漫画のあらすじを延々と書いているシーンが好きだと書いていて、私は同意した。どうしてうめずかずおが平仮名なのかというと、私のスマートフォンが「うめずかずお」と文字を打っても、「うめ」の字を変換候補にあげてくれないためだ。私もバカではないので、「ぼう」とか「はかりごと」など字を替えてみたが、出てくるのは「某」とか「謀」で木へんが出てこない。いっしゅん「謀図かずお」で押し通そうかと思ったが、やっぱりやめた。もしも私以外の人が私に
「謀図かずおがさぁ」
とか持ちかけても、私は「字が違うよ」と気づかないと思う。私は昨日初めて木へんであることを知ったから。だから今
「謀図かずお」
と言われたら「違う」と気づくだろうが、半年後にはわからない。私はこういう、とっかかりのない記憶がすごく苦手で、うめずの字を調べるのにも、ブラウザとTwitterを何度も行ったりきたりした。私はスマホで字をかくので、同時に画面に出せないのである。

それで、その人に対してはちゃんとした「うめずかずお」を出したが、どうやったのかと言うと、その人のtweetをコピーして、「うめず」以外を消したのだ。

ところで、ここまで読んだ人は「未明の闘争」に興味が出たと思うので、読んだらいいと思う。あるいは、私の保坂和志についての文章の中には、「未明の闘争」について書いたものもあるから、私のブログには「保坂和志」というカテゴリがあるので、そこから探してみてください。

ところで、何日か前に昌平さんと「モロイ」のやりとりをしていて、そうしたら昌平さんの記事の中で「すばる3月号で山下澄人が「モロイ」について書いていて」とあったので、私もすばる3月号を取り寄せた。最初は本屋に行って、私は本屋で手に入るなら本屋で買いたかったが、なかったからあきらめた。傍らのベンチで、子供が非常に熱心になにかの本を読んでいたから中身が気になったが、周りにたくさん大人がいたから見えなかった。話題本のコーナーに小保方氏の本があって、少し読んだが、やっぱり「私の子供時代は」みたいな始まり方だったので、読むのをやめた。

山下澄人が「モロイ」を読む度に老婆と会うシーンまでくるとそれ以降読めなくなる、という体験を二度三度繰り返している、というぶぶんは昌平さんの記事でも触れられており、昌平さんはどうして二度目や三度目のときは老婆のシーンから読まないのか、と指摘していたが、その通りだと思う。私は「モロイ」を一度通読したが、老婆については、実は若い女かもしれない、とか思っていた。モロイ自身についても、読み進めるとどうやら老人のような気がしてくるが、気がしてくるだけで本当は若いのかもしれない。ちゃんと伝わらない、というのは文章において致命的なのかもしれないが、巷にあふれる「伝える技術、云々」に関しては胡散臭さしか感じない。一方「モロイ」が致命的なのは間違いなく、この本はもう新刊では手には入らない。売れないからである。しかし、保坂和志が自身の文章の中で取り上げ、私や昌平さんもどうにか自分の中に取り込もうとしているわけだから、致命的でありながら、致命的でないなにかがあるのだろう。今の私にはそれがわからないが。

話は山下澄人に戻るが、山下澄人が「ペドロ・パラモ」もなかなか読めなかった、という話に少し驚いた。しかも最近になったら最後まで読み切れたが、最後まで読んだらつまらなくなった、という旨のことが書かれていた。実は私も「ペドロ・パラモ」についてはあまり面白いと感じなかった。保坂和志の小説入門の本の最初の方のアドバイスで、
「南半球の小説を読め!」
というのがあって、そこでエイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」とフアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」が引用されるが、私は断然「やし酒派」なのだが、保坂和志自身は他の著書でも「ペドロ・パラモ」を取り上げているから、「ペドロ派」なのかもしれない。山下澄人も「つまらない」とは言うが、つまらないと言うだけの価値をその話から見いだしたのだ。私はすっかり孤立してしまった。しかし、山下澄人の文を読むと、私が「ペドロ・パラモ」に魅力を感じなかったのは、最後まで読み切ってしまったからではないか、という気がしてくる。「ペドロ・パラモ」には長い名前、覚えにくい名前の人物が複数登場し、私は上にも書いたが、ものを覚えるのが苦手だから、読むのに苦戦した。苦戦したからつまらない、という気もするが、実はこの小説は最後まで読むとあるご褒美のようなものが与えられる。このご褒美とは、複雑な人間関係を把握した者に贈られるご褒美である。私がつまらないと感じたのはそこのぶぶんで、つまりご褒美が与えられるということは、この小説は複雑さを受け入れることを、強制している。その、やらされている感じに、私の気持ちは冷めるのだ。私は読んでいて自分が肯定される小説が好きなのだ。

山下澄人が、「ペドロ・パラモ」が読み切らない限りにおいて面白い、と言ったのは、最後のご褒美のことを知らなければ、ずっと自由でいたからなのではないか。