意味をあたえる

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「ストーリーが小説を遅延させる」と「音楽が邪魔で音が聞こえない」は似ている

「音楽が邪魔で音が聞こえない」は私が昔ドラムのレッスンを受けていたときに、当時の先生から、とあるオーディオマニアの言葉として聞いた言葉だ。先生も音楽をやっているだけあり、また機械も好きだからそれなりにオーディオに凝るぶぶんもあり、簡単なものではCDに十字の傷をつけたり、アンプの電源ケーブルを縦に裂くと音質が向上するという話を聞いた。私は音に関しては今思えばものすごく無頓着で、二十歳くらいまで小学校の卒業祝いに買ってもらったソニーのソナフォークというラジカセで音楽を聴いていた。ソナフォークが壊れると今度はビクターの、これまでより一回り小さいラジカセにした。外部端子がわかりやすい位置にあったからそれを選んだと記憶する。

ラジカセというのは、あるいは私の設定が甘いのか知らないが、低音が弱く、バスドラやベースの音がほとんど聞こえない。だから勘でコピーしたりすると、
「違うよ」
と言われたりする。そういえば高校時代ベースをやっていた人が、大音量にして座布団をスピーカーに被せると低音がよく聞こえると教えてくれたが、面倒だからついにやらなかった。そのベースの友達は比較的爽やかな外見をしていたが、しゃべりが全くダメで、何を言っているのかよくわからないときがあり、だから友達があまりいなかった。当然バンドを組んでいるわけもなく、それなのにベースをやっているのが不思議だった。
「棚尾はなんとかはコピーした? あれはムズいぜ」
とか馴れ馴れしい口をきかれると私はムカついた。

今思えば私は確かに音楽をやっていたが、音そのものには無頓着で、ドラムという楽器は四肢をつかって演奏するが、それらをバランス良く使うことが良い演奏と考えている節があった。手に関しては顕著で、基本パターンでは圧倒的右手の出番が多いが、場面の移り変わりでは、左手をメインにしたりした。連打も左右交互に必ず行う。右右右、と右左右、が譜面上は同じでも、意味合いが全く異なるということを教わったのは、ずっとあとになってからだった。つまり演奏とは基本的には音に隷属することであり、音にはバランスも何もないのに、私は最後の方までそういう発想を持てなかった。

オーディオマニアに話を戻すと、マニアは建物全体をそれように建て替えたりし、次第に音楽よりも日常の音などを聴くようになる人もいるそうだ。そういう人が、冒頭の「音楽が邪魔で音が聞こえない」という発想になるらしい。

私はその言葉を、長い間本末転倒的な、皮肉話のように受け止めていたが、そういえば数年前に読んだ保坂和志の本の中で、「ストーリーが小説を遅延させる」ということが書いてあって、それって同じことじゃないか? と今日ふと思った。

この発想も「ストーリーすなわち小説」と考えている人には理解しづらいが、漫画で考えるとわかりやすいが、私はここのところ「キングダム」という漫画を読んでいるが、先が気になって、ものすごい早さで読んでしまう。これは書いている方もおそらく「素早く読んでほしい」と計算されている早さである。早さは効率化のシンボルであり、万能の正義なのである。しかしおかげで見落とした絵やセリフはたくさんあり、だから私は二度三度読まないと、なかなか読んだという気にならないのである。つまり保坂和志のいう「遅延」とは、そういうことではないか。ストーリーとは、連続したものを次に次に、と進ませていくエネルギーのことであり、しかし絵でも文でも描写と呼ばれる物は静止画であり、つまりそれらは相反するのである。