意味をあたえる

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東大生もたいしたことない

なん日か前にテレビを見ていたら「おバカと東大生とどっちが幸せか」という番組がやっていて、スタジオではおバカ芸能人と東大を卒業してテレビに出るようになった人がどちらが幸せかについて論じあっていた。おバカと呼ばれる人たちが「今が楽しければよし」というよくある主張をし、それに対して元東大生が、
「将来の不安とか考えないの?」
とやり返す。私はこれを聞いて東大生も大したことないなと思った。将来の不安という言葉は私の人生についてここ数年よく耳にするワードであり、だんだんとそれが作られた不安、作られた将来だということがわかってきた。本当は不安もそうだし、将来というものも存在しない。逆に言えば私は今37歳で37歳の将来は65歳とか70歳であるが、65や70の人にも将来は存在する。将来を「30年後」とかにしても同じだ。そういった捉えどころのない言葉をさも重要なことのように扱うなんて滑稽だ。たとえばそれはUFOとか幽霊のことを論じるのに似ている。そこに強烈なリアリティをかんじた人なら別だが、大部分はそうではない。

そうであるはずなのに、元東大の人が軽々しく「将来の不安」なんて口にするのはなぜなのか。卒業して、芸能界に揉まれているうちに視野がぐっとせばまったのかもしれない。目の前のことに手一杯になってしまったのかもしれない。それならば結局はおバカの「今が楽しければ」と同じだ。ちょうど今朝100分で名著の再放送でアドラーがやっていたのを録ったものを見たが、そこで紹介された考えに合わせるなら、結局苦しい現在を正当化するために、「将来の不安」なんてものを持ち出しただけである。そういう人たちは「アリとキリギリス」のアリだと勝手に思いこんでいるが、それではアリがあまりに気の毒である。