意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

書くことがたくさんある

朝は次々に言葉があふれてたくさん書くことあるなあと思っていたが、なにせ車を運転しているからその場で書くことができない。あれか、マイクに話しかければいいのかと思うが、セッティングしたところでいつも話すことがあるとは限らないし、思いついてからセットするのは危険だ。それでそのときも(書くときまでおぼえてられるかな?)と思って案の定忘れ、そういうときはなんでもいいから書くとたまに思い出したりする。思い出したら思い出す前に書いたことはを消せば朝のことを書ける。消したことはないが。

それで思い出したが昨日ズイショさんがnoteに文章のリズムのことを書いたという旨のtweetを目にして、リズムのことを考えていた。私はブログをやり始めたころ複数の人に「リズムの良い文章」と言われることがあり、私は「昔トラムやってたから」とうそぶいたら相手も納得している風であり、ブログとはなんでもアリだなと思った。実はリズムについて考えたことはなかった。それでも最近ドラッカーの本を読んだらドラッカー、あるいは翻訳者の文のリズムがとても良いとかんじた。それはこの手の本には珍しく一定の間隔で短くて断定的な文句が挟まれていて、読んでいてそこでつんのめるかんじになる。あるいは素振りしてバットがすっぽ抜けるような文である。ただそういうのがリズムが良いとかいうのは安易だ。

とにかく私は自分の書くものについてリズムを意識しないよう心がけだ。リズムが良いと褒められて、じゃあもっと良いリズムのものを書こうとすると、ロクなものにならないからである。よく言われるが、褒め言葉にこそ注意しなければならない。褒められてダメになった人をたくさん見た、という文章をいくつか読んだ気がする。私は2010年代初頭まではいかに伝えるかとか、共感こそ大事みたいなことを考えていたが、やがて行き詰まった。そういう相手ありきの書き方は安定性に欠くからである。そもそも共感だなんて、いかにも自己満足で気持ち悪い。

そうしたら最近になってもうあまり「リズムが良い」とは言われなくなった。最近では「話すように書く」と言われることがあり、これは私にとって意外だった。確かに以前の記事で「私のブログは延々と続くひとり言」と表現したことがあったがそれは比喩であり、もっと言えば嘘なのである。私は書いていてこんなに固い文章もないだろうと思うことが度々ある。もしかしたら読者は私が会社や家庭でこんなしゃべり方をしているのかと思っているのかもしれないが、現実の私はもっとお茶目でチャーミングである。会社で立場が上の人でも話のわかる人だと思えば、けっこうきわどい冗談をぶっこんだりする。当然それで失敗することもあるが、案外けろりとしているのである。

よく文章でもなんでも、成果物と自分らしさに統合性を求める人がいるが、私はそういうことに無頓着で、むしろ出来上がったものから私というキャラクターをつくるほうが作業としては好きなのである。