私は子供の頃から私以外の人に「やさしい」と言われ続け、「やさしい」とは褒め言葉にもけなし言葉にも使えて大変便利だ。最初のうちは少しは嬉しい気持ちもあったが、悪い意味で言われれば直さなければ、と思うときもあったがだんだんとどうでも良いような気持ちになってきた。顔もやさしいのである。そのため子供の頃から人に振り回されることが多く、ずいぶんと昔から
「人といるのは疲れるなあ」
と思っていた。「自分は自分」とクールになれるわけでもなかった。ひとりは気楽であったが、ひとりでは気が乗らなかったり気が小さくなってしまうことがよくあったから、そういうときは人についてきて良かったなあ、と思える。例えその人も消極的であっても私は見栄っ張りだから誰かの目があると、途端に積極的になったりする。私は長い間親しくない人に電話するのが苦手だったが、仕事をするようになって入ってすぐに
「はい、ここの人に電話かけてお金持ってくるように言って」
と言われ、「いいのかよ」と思いながらかけたが案外平気であった。仕事だとどこか他人ごとな気がしていた。お金を持ってこない人もたくさんいたが、そういうのは仕方ないか、という風に済まされた。おおらかな職場であった。しかし今でも一人だと店に入れなかったり、ぐずぐずしてしまうことが多い。そんな風なぶぶんを人はやさしい、と評価するのだろうが、しかし親しい人、私の妻や友達は「冷たい」とか「人の心がない」とか言う。
前述したように以前はこのような性格を「直さねば」と思ったり、変わってしまった風を装ったりしたが、今は人に言われたくらいでわざわざそんなことするまでもない、と思うようになった。私は以前どこかの記事で「自分が短所、と思う程度の性格の特徴は本当の短所ではない」と書いたことがあったが、そのときは思いつきをデタラメに並べたわけで、妥当がそうかは今でもわからないが、わからないなりに自分に言い聞かせているときがある。つまり何か自分に不備があったときに自分の欠陥を見つけたような気になったときに、そんなもの短所のうちには入らない、と思うのである。だから私のやさしさなんて、なんとでもやりようのある程度のやさしさだとは思っているが、いいかげん人に「やさしいやさしい」と言われるのにはうんざりする。
2
子供に習わせ事をさせていると、たびたび素人のMCというのに出くわすが、うまい人もいれば下手くそなのもいて、今日のはかなり下手くそだった。その特徴を並べてみる。
・地名、人名を間違える(予習が足りない)。
・慣れてくるとダレる。
・知っている人が登場すると内輪ネタを披露する(誰も聞いてない)。
・カンペを何行目まで読んだが忘れ、えー、と目を凝らして探すがどうやらそれが私は緊張してないですよアピールっぽい。
・最初は客にインタビューとかするが、後半にしたがってやっつけである。
私は楽屋オチとか内輪ネタとか、仲の良い人だけ執拗にいじったりするのを見ると恥ずかしくて大変居心地が悪くなる。