意味をあたえる

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正しいことを主張する気になれない

小学校のクラブ活動で「5万円の備品」を購入するために保護者50人を1週間前から何度も動員してバザーをし、豚汁とぜんざいをふるまって…非効率?交流目的? - Togetter

確かに「お金を割り勘したほうがずっと効率が良い」という意見には非の打ち所はない。また当事者でない外野が自由に批判するというのも何らおかしくはない。しかし私はこういうのを見る度にモヤモヤしてしまう。理由について考えたが結論として私は正しさそのものはともかくそれを振りかざしたり見せびらかしたりするのが好きになれないということに至った。正しさはその足場がぐらぐらしているときには主張しなければならないがみんなと共有できたら今度は妙にお節介になって鬱陶しくなる。距離をおきたくなる。上記のバザーに参加する当事者だって「面倒くさい」と思う人が大半だろう。それでも変わらないのは集団には必ず自分の思いもよらないような考え方の人がいてこちらの理屈が通用しないからである。あとは行動力とか決断力とか。正しいことをすれば孤立するのでそれの心構えも要する。そういうリスクを考慮すると必ずしも前例を覆すことが効率的とはならない。たとえば子供が卒業してしまうなら変えたところで本当に美味しいのは翌年以降の人たちである。最後のバザーならおとなしく不用品を集めて売りさばくほうがずっと楽である。どの分野でも同じことを繰り返すのは本当に楽である。