意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私たちは過去によって生かされている

私はクレイジージャーニーという番組が好きで、毎回録画して見ているが、先週放送したリアカーで世界中の陸地を歩くという人が出ていて、ぬかるみを歩いたりする。私はその人の話というか、考え方というかに感動した。クレイジージャーニーという番組に出る人は大まかにわけて二種類いて、文字通りクレイジーな旅をする人と、クレイジーな人を取材するためにジャーニーする人がいる。

私が生まれて初めて買った音楽のアルバムはアルフィーの「ジャーニー」だった。ジャーニーというアルバムには一曲目がジャーニーという曲で、四曲目がジャーニーマンという曲で、よくアルバムタイトルと同名の曲やタイトルを連想させるタイトルというのはあるが、一枚のアルバムで二曲も入っていることに、私は初めての購入ながら違和を感じた。プログラムに例えると、グローバル変数とローカル変数みたいな具合だ。あと、ジャーニー、という言葉は「じゃあね」という別れの挨拶と語感が似ているため、友人との別れの際に、
「ジャーニーマーン!」
と叫ぶ人もいた。それが自転車に乗ったときの別れだと「ジャーニーマーーーー」と「ン」が聞こえる前にフェイドアウトした。自転車は小さくなった。

私は前者の自身がクレイジーなパターンが好きで、さらには植村直己賞を受賞した人の思考には感動を覚えた。私が認識している限りで、植村直己賞の受賞者でクレイジージャーニーに出演したのはグレートジャーニーの人と、世界の8000メートル以上の山をすべて制覇した人と、先週のリアカーの人だ。

先週のリアカーの人は、自分の意志でリアカーを引いているにも関わらず、旅の最中は
「嫌だ、嫌だ」とか、
「明日なんかこなければいい。そうすれば歩かずに済む」
と、わりかしネガティブなことを言っていて、一度なんかはアフリカでリアカー丸ごと盗まれて、旅を断念せざるを得なかったときがあったが、そのときまず思ったのが、
「明日からもう歩かなくていいんだ」
という喜びだったという。それを見ていた小池栄子
「理解できない」
とコメントした。私は、そういうことを聞くとわくわくした。小池栄子ではなく、リアカーのほうだ。そういうのって、戦争が楽しい、というのと似ている。どうしてそんな発想になったのか、自分との思考回路の違いに、わくわくする。

思うに、「好きなことをやる」というのは、一見合理的で100%の正しさを備えているような発想に思えるが、実は極めて限定的な、狭い世界の発想なのではないか。例えばなんでも好きなものを思い浮かべると、それがどうして好きなのかについて、簡単にたくさん述べることができる。「なんとなく」もそう。所詮自分の言葉でカバーできてしまう「好き」なんて、薄っぺらいものではないか。それよりも、理由はわからないのにいつもやっている、嫌いなはずなのに、気づくとやっている、という方が、強力な引力が働いているのかもしれない。

私は前段落を「かもしれない」と締めたのは、そういう根拠をわりかし簡単に述べられたからであり、リアカーを引きながら旅を続ける人が旅を続ける理由について、こんな簡単に説明できるわけないと思うからである。

とにかく、もう無理に好きなことをする必要はない。