意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

映像

最近映像を撮るようになった そう書くといかにもだが昨日1分くらいベランダで風に揺れる洗濯物を撮影した 近くで住宅を重機で解体するバキバキという音が終始鳴っていてその音も入れたかったがあまり入らなかった 少し前にもじゃばじゃば流れる川を撮影したりした とにかくなんでもない・音楽とかもないプレーンな動きを撮りたかった イメージとしては北野武の映画の間みたいな あるいは小津安二郎とか・と言っても私は小津安二郎は大学のときに東京物語を見たきりだ 見よう見ようと思っても私には映画のハードルはかなり高い 映像は受け身にならなければならないのが気にくわない 同じ理由で音楽もしんどくなってきた 大音量の西野カナとか何の苦行だよと思ってしまう 「明日電話しようかな?」とか好きにしろとしか言いようがない 年をとったのだ 昨日の記事にも書いたが楽しいこと・夢中になることが減ってじゃああとはどうやって生きていけばいいかと思うがそういえばあの後思い直したが好きというのはひたすら私はこれが本当に好きなのかと検証しつづける行為なのだ なぜなら好きとは感覚だから理屈ではなく「腑に落ちる」ということがないから今日好きだったものが明日そうでなくなることもじゅうぶんにあり得るのだ 


ここのところ小島信夫保坂和志もすっかりご無沙汰だがそういえば「寓話」を読んでいたら「モンテクリスト伯」が引用されていている箇所があってそこでいったん中断してモンテクリストを読み始めた モンテクリストを読んだら長い話が続けて読みたくなって三国志を読んだ それっきり寓話に帰ってこれなくなっているが逆に私はその間も寓話を読み続けていることに気づいた