意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

書かされている

ブコメ比較 ぶつかってくる人

私というものが一貫性を持って内部に存在したとしても外からの出来事にいくらでも影響を受け形を変えてしまうということをかんじたよ 上記で言えば元々の記事を書いた人の感情というか勢いに引っ張られてしまって同じ風にはコメントできない 人はそれをダブルスタンダードとか言うけれどむしろシングルスタンダードのほうが状態としては例外でありそれは一貫性があるというより思慮が浅いが故にそういう状態を保つことができるのだ とは言うもののそれでは人とのコミュニケーションが立ちゆかないから分野によってはシングルであることを暗黙の了解としてたとえ暫定的であってもいったん自分がそれを表明したらある種の責任を持たなければならない


私は暫定的、と書いたがそれを許容できない人が大勢いるようだ


ネットを閲覧していて自分が死ぬ日をただ待つだけの人が一定数いて戸惑う 例えばその理由が難病であるとか障害だとしたら辻褄が合うが果たして「自分が同じ障害を持っていたら死を待ち遠しく思う」と思っていいのか、むしろそう思うことで彼らの思いを根底で拒絶しているのではないかと思ってしまう あるいは保坂和志が「猫が死ぬのは人間が死ぬよりも悲しい」と言ったこと それらは今の私には理解のできない考えだがいつしか理解し許容できる日がくるのかもしれない


私は自分にしがみつく人は幼稚だと思う 人生とはどこまで許容できるかのプロセスではないかと最近思うようになった