意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

カマボコ板

主体性のない毎日を送っている。誰かに言われたことのみをこなす毎日である。今よりずっと暇だった頃、何をしてたのか思い出そうとしてもうまくいかない。今が丑年だという事実がうまく飲み込めず、神社の壁面に描かれた牛の絵に奇妙を感じた。何年か前に行った神社である。行きたくはなかったが、家族が行きたいと言うから行った。山の上にあり、道の端に雪が残っていた。踏み固められた雪を靴底でけずりながら
「シャーベットお待ちのお客さま!」
とふざけたが誰も乗ってきてくれなかった。下の子もすでに中学生である。私だけが神社が何をするところなのかわかっていない。宗教施設だということしかわかっていない。鳥居の下の中央に木の柵があって、タックルして倒したら15点とか思ったが、さすがに私はそれが置かれている意味を知っていた。

あまり本も読まなくなった。根気がなくなってしまったのである。だから漫画とか推理小説を読んだが、途中で嫌になってしまった。漫画は過去のエピソードがワンパターンすぎていい加減うんざりするし、推理小説はハラハラしすぎてしまう。モンテクリスト伯はとてもおもしろかったのに、不思議である。仕方がないのでまた小島信夫を読んだり、保坂和志を読んだ。まったく面白くなかった。かつてはここから色んなことを思案して、それを文章にした。今は文字が私の表面を滑り落ちるだけである。私は自分が堅い板のようになったと思った。カマボコ板である。何も染み込まない。セロニアス・モンクを聞いてみたが、同じだった。オフィシャル髭男爵はあざとさばかり感じてしまう。キングヌーの方が器用だ。

世の中が様変わり・幸せは断片

書き続けていると書かなくするのが難しいのと同じように、いったん書くことをやめると書き出すのが難しい。私は仕事でたまに思い荷物を転がすが、いちばん最初がいちばん動かしづらく、上司に
「遊んでんじゃねぇ」
と怒られる。もちろん遊んでいるつもりはないし、上司も私が遊んでいるとは思っていないのである。ただでさえ下を向くことの多い職場だから、上司と私がじゃれ合うのを見せるのは、周囲に良い影響をもたらすのである。私はべつにそういうのを狙っているわけではないが、私もいつのまにか見られる側になってしまった。

電車に乗っていてとても寒かった。窓が同じくらいずつ開けられており、換気をしているのである。以前より電車に乗らなくなったから、電車で換気をしていることを知らないではないが、いちいち戸惑ってしまう。一年前は電車に乗って通勤していて、駅のホームで震えながら電車を待っていた。とても高い場所にあるホームで、私はその線路を万里の長城のように感じていた。階段もとても長い。

宝くじが当たっても仕事はやめない

こんな世の中だからこそ、「本当のお金持ち」の話をしよう。 - いつか電池がきれるまで

読んで、やっぱり金持ちって面倒だなと思った。少し前に宝くじの話になって「宝くじが当たったとしても億の金が入ったとしても仕事は続けるだろうな」と言ったことを思い出した。私が言ったのである。年末になると誰かが「当たったら仕事やめますので」と言い出してしらけた気持ちになる。やめたところで一体どうやって生きていくのか。食うに困らなくなって、何をする必要のない人生が私には怖い。もう「仕事が忙しくて○○できない」という言い訳ができないのである。仕事が好きだと言うつもりはない。


配当利益だけで生きているような人からしたら私の考え方は理解できないし、不幸な人に見えるだろう。しかし私からしても資産が目減りしないように神経を張って生きるのもしんどそうに見えてしまうのである。

どうように生活が不安定な人からも私の考えは理解されないだろう。とりあえずの生活が続けられる私は幸福なのである。

私はここのところ幸福について考えていて、私にとっての幸福とは変化しないことではないかと仮説立てたりしている。ここ数年はとにかく変化が多くて、変化しない物事にあこがれてしまう傾向がある。ある日金脈を見つけ、莫大な収入を得たりして、これは仕事をやめつ資産を守ることに注力せねば、とか考えると憂鬱なのである。当然宝くじも怖くて買えないのである。

鬼滅の刃読んでます

お金がないから少しずつ購入して読んでいる。面白い。呼吸がどうとかというところは、流し読みしている。柱と呼ばれる人たちのキャラがいかにも漫画っぽくてシラケるが、各々倒錯しているかんじが鬼を憎み続けるにはまともな神経じゃやってられないっていう風にもとれて、リアルである。

割と各々のやりとりのとぼけたかんじも好きである。いちばん面白いのは、悪の大将が失敗した部下をなじるシーンである。昔から悪が恐怖で縛るというのはあるが、うまい具合にアップデートされていて、現代のブラック企業感がよく出ている。あるいはカルト宗教か。反抗や愚痴を言う部下よりも、自分に心酔する者を取り立てるなんて、およそ実力主義とは程遠い。ブラック企業ってそんなものなのか。鬼の女の石が悪の大将のことを「臆病者」と評していたが、ブラック企業の大将もそんなものなのかもしれない。本当の実力者とは、相手の実力を認められる人であるというのは、一般論だが現実はなかなかそうはいかないのである。

対して善の親玉は一部の鬼は存在を認めるという提案を頑なに拒否する柱の人を否定せず、現代の教育者というかんじがした。こんな人になりたいものである。私は詰められる鬼の中間管理職の人が不憫に思ったが、一方で心のどこかでゾクゾクっとした。

義務

長男が不登校の時に担任教師が「あなたには学校に来る義務がある」と言ったら「大人の義務であり僕の義務ではない」と言い切った話 https://togetter.com/li/1548212

下の子が春から中学に入って、校則がなんたら、て話を聞いて唖然とした。ソックスや髪をとめるゴムの色を指定するのに何の意味があるのか理解できない。それが決められた頃には、妥当な理由があったのかもしれない。私が子供の頃は「トイレットペーパーは30センチまでしか使わない」という校則はナンセンス、という話題があって、私が実際入学する頃にはそんなのはなかった。でも、多分最初に考えた人は大真面目で、オイルショックとか背景があって、それなりに妥当性はあったのだろう。ソックスや髪留めも同様だろう。しかし、字句だけを一人歩きさせずに、周囲はアップデートさせなければならない。

一方でどうしても文部省の頭が硬くてにわかには変えられない、みたいな大人の事情もあるのかもしれない。さすがに文部省と戦えとは言えないから、仕方ないだろう。だとしたら現場は「まあ適当にやってよ」みたいになるだろう。私はそういう雰囲気は好きだ。


引用元の教師は、単に「義務」という言葉を振りかざすだけで、何ら自分の中に論理を持っているようにはかんじなかった。生徒の「義務とは教育を受けさせる義務であり、教育を受ける義務ではない」という反論を、「口答え」としか評価できていない。教師が上で生徒が下であるという関係に固執し、何の疑いを持っていないのである。本来教育者なら、こんな反論をされたら喜ぶべきである。これだけ自分の考えを言えるのだから、学校へ来ない理由も論理的に述べられるはずであり、相手の欲求や障壁がわかるなら、解決の糸口はあるのである。もちろん、最初の「喜ぶべき」は糸口があるからではないが。

私がもし教師の立場なら、「小賢しい」と思うかもしれないが、そうだとしたら私が立ち向かうのはそう思ってしまう自分なのである。

職場でパートを使っていて、休みがちな人がいて、それを良くないことと思う人がいる。仕事にはもっと誠意を持って取り組むべきというのである。私はそういうのは違うと思っていて、また以前より裁量があるからことあるごとに「休みたきゃ休んでいいよ」と言っている。休むときに申しわけなさそうに理由を述べる人がいるが、私としては「ちょっと気が向かないから休みます」くらい言ってもらいたいのである。そういう私もつい仮病を使って休んでしまうのだからあまり強くは言えないが。

ギブアンドギブ

ギブアンドギブが富とか財力を持っている人にしかできないという記事を読んで、それはビジネスとかはそうかもしれないがそもそもそれは人間関係の話で、だとしたらそうとは限らないと思った。

もちろん私だって誰だって、与えるだけなのはしんどくてテイクが欲しいことはあるけれどそういうときはテイクが得られないことを嘆くよりギブを縮小すればいいのではないかと思う。与えられる範囲で与える。あるいは与えられるけど与えない、というときがあってもいいと思う。それでもテイクは求めないのである。テイクと言っても求めないのはギブに対してのテイクであり、ひょんなことから発生したテイクは拒む必要はない、つまり他人の好意には甘えていいはずなのである。テイクがない、と嘆く人はこの辺がごっちゃになって、施しはいっさい受けません、みたいなスタンスになってしまっているのではないか。全幅の信頼を寄せるなら、むしろ困っているときは助けてくれるだろう、と期待したっていいはずである。そういうときは「当然だ」という顔をして受けるべきである。そうしないと今度こちらから与えるときに相手が躊躇してしまうからである。

あるいは逆に、困っていても手がさしのべられないこともある。そういうときに嘆くのではなく、たまたまそうだった、と潔く諦めるのである。決して絶望して自暴自棄になるのではなく、たまたまそうだった、と思うのである。

そんな風に割り切れないのなら、ギブをしぼるのである。つまり困っている人を無視するのである。

死について2020

月に一度くらいは死ぬのが怖いと思うが、だんだんとある日突然死ぬことになってもそれは仕方ないと思うようになってきた。私には子供がいて、残された子供の心情を察すると気が滅入るが、それでも子供に死なれるより、自分が死ぬ方がずっと楽に思える。死ぬというのは基本的に自分本位な行為だと思う。だから迷惑かけちゃうから自殺できませんというのは、何か違うふうにかんじる。

20歳くらいのときに死ぬことを検討したことがあったが、できないことがわかった。それは勇気とか覚悟の問題かもしれないし、性格の問題かもしれなかった。そのときに「死ねないんじゃ、生きるしかないな」と思って今に至る。「死にたい」となるべく思わないようにした。どうせ死ねないなら、死にたいと思うだけ時間の無駄だからである。その代わり「死んだ方がマシだな」と思うようになった。最近は「死んだら楽なのになあ」と思ったりする。単なる言い換えな気もするが、生きることが前提になっているのである。私は面倒くさがりで、面倒くさがりとは「知りたがり」みたいな「がり」で面倒なことを背負いこみたい性質なのである。そうして面倒なことから逃れたくて死ぬことに憧れるのである。