意味をあたえる

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引用について、保坂和志「小説の自由」から引用

少し前にいまださんが「小説の自由」を読んでいる、というのを目にしたので私も読もうと思って読み、おもしろい部分があったので付箋を貼ってあとでブログを書こうと思ったら機を逃した。

しかし今朝三森さんのブログを読んでいたら本の引用についての記事で、少し関係あるなあと思ったので、以下に引用してみる。

ちょうど届いたばかりの雑誌、季刊「大航海」51号(二〇〇四年七月号)特集「精神分析の21世紀」に、新宮一成がこういうことを書いている。

 無意識は「他者の語らい」として規定される。事実、自己が語ることがらは、物語化されており、したがってナルシシズムに侵されてしまっているから、信用できるのは他者からくる言葉だけである。ところが、他者から来る言葉だけを吐いている人間歯、どう見られるだろうか? 自己責任の取れない人、ということになる。どちらにしても自分らしさというものは期待できない。だから、人格というものがあるとすれば、それは、他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合として定義されることになる。人格とは、その組み合わせ具合の、その人ごとに最も安定したあり方、ということになる。

ここで「ナルシシズム」の定義が問題になるかもしれないが、私はたんに「私、の固有性を信じること」ぐらいに考えておけばいいのではないかと思う。「自己が語ることがらは、物語化されており」という箇所を読んで、「つまり、物語を語りたいのは人間として必然的な欲求なのだ。だから小説には物語(ストーリー)が必要なのだ」と都合よく受け取ってしまう人にはいまここでは言うことはない。何でも自分に都合よく解釈してしまう小泉純一郎タイプの人は案外強固で、そういう人の砦は簡単に崩せるものではない。自己を省みる回路をまったく持たない総理大臣の任期中に、小説史上最高の売り上げを記録したベストセラーが出現したのは何かの符号、という以上に、時代の同じ基盤から生まれた出来事なのではないかと思うのだが、どちらも私にはこれより深く考えようと思うほどには関心がない。
 ここで私もまた新宮一成という他者の言葉を流用して自分の文脈にはめこんでいるわけで、引用した新宮一成の論旨に不満のある読者がいたとしたら、この部分だけで新宮一成精神分析を批判しないで、まずは「大航海」に掲載されている全文にあたってほしい。ここでは新宮一成というクレジットがついていても論旨の責任の所在は保坂の方にある。──という「責任論」も奇妙な感じがするが、とりあえずどこかで線を引いて、「自己の領域」を決めておかないと、計算が複雑になる。
 社会の慣習や法の対象としても、「自己の領域」を決める必要があるのだろうけれど、そういうことはいまはどけておいて、思考のユニットとして、「自己の領域」をとりあえず決めておかないと、いつでも全部を持ち歩かなければならなくて、思考する際に余計な負担が増えてしょうがない、という意味での「計算が複雑になる」ということだ。「精神分析」とか「フロイト」という言葉を使うときに人はいちいちそれの厳密な定義や内容をすべて検索しているわけではなく、それらの名詞を一種のラベルとしてとらえて、だいたいのところをチェックして先を読み進める。
 私がいま「責任は保坂の方で、新宮一成精神分析の方ではない」といったのは、引用部分を誤解・曲解した人が、この部分だけで「新宮一成」なり「精神分析」なりのラベルをそれらに貼りつけたら困るというようなことだ。では、保坂に対する誤解・曲解はかまわないのかといったら、それはいちおう今回の文章全体で一定の論旨を形作るわけだから、引用部分で生まれた誤解・曲解は保坂の論旨に回収されることで解消されるだろうという意味だ(楽観的ではあるけれど)。

 新宮一成によると、「もともと人間の脳は、柔らかいテープレコーダーといった趣の物体であって、他者の語らいを忠実に記録している」。そして「人間は、成長して、それを自分の言葉であると思い込んで外に出すように出来ている」。
 繰り返しになるが、ここでもまた、この新宮一成という他者の言葉は私(保坂)の言葉である。私は礼儀(社会の慣習ということか)として「新宮一成」という名前をクレジットしたけど、この言葉は「他者の語らいを忠実に記録している」のと同じ意味で私の言葉であり、私の考えたことである。
「引用問題」でついでにもうひとつ言っておくと、引用というのは、それによってある権威が付与されるような効能がある。いまここでは、私は精神分析という権威を借りたわけだが、それ以上の引用の効能として、「引用箇所は真偽を問われない(問われにくい)」または「なかば自動的に引用箇所が真理として機能する」ということがある。引用箇所は数学の定理と同等の価値を持つ、証明済みの信じるに足る事項であるという錯覚を読者に与えやすいのだ。

(中公文庫 p167 傍点は省略)

長い引用になってしまい、途中で「ここまででいいか」と思ったが、読む人が「あーなるほどなー」と思ってくれそうだったので、長く書いた。以上が私の「引用」に対する私の考えで、引用中の「保坂」を「弓岡」、「新宮一成」を「保坂和志」と脳内で書き換えて読んでいただければと思います。私は今朝の三森さんの記事で、
「引用と引用外の比率はどうこう」
というコメントをしたが、その根拠についても、私の引用を読んでいただければわかると思う。しかし、三森さんが述べているのは法律の話だから、根本的に土俵が違う。

少し話しは違うが以前、別の人のブログを読んでいたら、明らかに別の小説家が書いた内容を、自分の意見のように述べているのがあって、例えば少し言い方を変えるとか、「岐阜県」を「長野県」に変えるとかすればいいのに、あまりにそのまんまだったから、私は気分を害した。なに涼しい顔してパクってんだよ、と思った。それは普段挑発的なことばかり書くブログだったので尚更だった。よほどコメントで「これはあの人のなんていう著書(p256)の引用ですね」とか書いてやろうかと思った。私はその本を現在も持っているから、ページまで出すことができた。さすがにページまでは記憶していないが、私もそれなりに感銘を受けた文章だったのだ。

そうじゃなきゃ、自分の記事の中ですっとぼけて、いきなり「今日の名文」みたいなカテゴリーを作って、同じ文言をぶつけてやろうかと思った。そのブロガー(皮肉をこめてそう呼ぶ)は私の記事など読まないから、自分が遠まわしに批判されていることには気づかないだろうが、それが尚更愉快だった。私は悪い性格なのである。しかし結局なにもしなかった。「今日はムカつくことがあった」くらいは書いたかもしれないが。

それ以来、というわけではないが、私はきちんとルールに則った引用、まではしなくても自分で記憶していれば「誰それの本で読んだ」、「以前どこかで聞いた」、という風に前置きをするように心がけ、読んだ人に「自分の考えなどなにもない人」と思われるようにしているのである。

※三森さんの記事はこちらです。そういえば本を書き写す際に三森さんが紹介していた本を開いて固定する器具を購入したのだが、いざ出番というときにどこかへ行ってしまい、しかたなく洗濯バサミで挟んだらやはりあまり意味がなかった。


※小説「余生」先週公開分をまとめました。
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