意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

我思うゆえに......

我思うゆえに我あり、で思い出すのが昔タモリの「哲学天国」みたいな番組があってそれのキャッチフレーズがそれでおそらくその当時「ソフィーの世界」とか流行っていたから哲学いけるんじゃ? みたいなノリがフジテレビにあってとはいうものの哲学は相変わらず敷居が高いから「我思う......」という解釈しやすい言葉が一応メジャーなデカルトさんが言っているからハクがつくし、番組冒頭でみんなで唱えて
「安心してください、テレビは相変わらずバカですよ」
とアピールしたかったのかもしれない。引用の元の記事もこれと同じ流れを汲んでいるように思える。全体的に興味深いのに、わざわざ話を浅くしている。これを「論述における人工的浅瀬」と名付けよう。私はデカルトが不憫だ。そうは言っても私だってデカルトについては上記の言葉とあと座標の概念を作った人ということしか知らない。保坂和志はあの言葉だけとらえても意味がない、と言っている。

意味がないというのはどういうことなのか。私は保坂和志の「考える練習」という表紙に達磨が写っている本を二度読んだが、ふつう「考える練習」というタイトルだったら、毎日漢字の書き取りをしろとか、ニュースを見たら必ず突っ込みを入れろとかそういう練習内容が載っていそうだが、そういう具体的なものは何もない。ただ「考えることのできない」若い編集者が保坂にひたすらなじられるだけの内容なのだ。しかし私が前述した「練習」をしたところで、それは考えるという行為からは遠ざかってしまう。関係ないが数日前に義理の祖母が死んだ。妻は臨終の場に立ち会い、そこで心拍数をはかる装置が、

ぴーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

となるのを聞いたが果たしてその瞬間にすべてが死ぬのか気になり私に質問した。私は
「心臓は止まっても止まる直前に押し出された血液はあるわけだから、それの酸素が切れるまでは生きている」
と答え、その後しかし医者は眼球に光を当てそこで瞳孔がひらくか見て死の判断をするわけだからやはり心拍が止まればそこで明確な死が訪れるのかもしれない、と思った。だけれども死とは当人だけのものではないから、やはりゆっくりと死ぬのだろう。私の子供がどこで知恵をつけてきたのか
「人は二度死ぬ」
ということを私に話した。私は「荒川修作は人は死なないと言ったらしいよ、死んだけど」と答えた。私は子供の頃とかもっと若い頃は死ぬなんてスイッチのオンオフの切り替えみたいにくっきりしたものでかつ、極めて個人的なものだと思っていたが数行前で「当人だけのものではない」とか「ゆっくり死ぬ」とか、口走りそれは誰かの受け売りだがなんとなくテレビを見ながら食事をしながら自分の言葉としても言えるようになった。だから「思うから我がある」「思わないから我がない」みたいな誤差を認めない極端な発想も、どこか勢いだけの幼い言葉に感じる。私はデカルトは読んだことはないがハイデガーはこの前読んだがそのときの感じから予想するに、「我」「思う」までには随分長い道のりがあるはずで幼稚園児は「ぼく」、関西人なら「うち」江戸時代なら「拙者」みたいな条件や例外のない極めて精度の高い「我」なのである。それが人工知能と相容れるとかそうでないとかいうのは、次元が違うというか、些末な問題なのである。あるいはやはり精度が低すぎて世間話みたいになるのである。

ところで私がこの記事を書こうと思った理由は「コギト、エルゴ、スム」というので漫画の「コブラ」を思い出し、コブラがサラマンダーという強敵と戦ったときにあまりに強すぎてなんで強いのかというと実は実体のない存在だから物理攻撃が一切効かない系だったからでありそれはプログラムであり、コブラは制御するパネルを見つけるが作動がしない。なんか自爆のキーワードがあるらしいがわからず、考えているうちに思いついて打ち込んだのが「コギト、エルゴ、スム」でありその瞬間サラマンダーは「げっ」という顔をして消え去ってしまうのである。そして隠れ部屋にそれを操っていた真犯人がいるのだが、それは当に死んでミイラになったヒトラーで(作中ではヒトラーとは書かれていないが、髪型とかが似ている)ヒロインが「あれは誰なの?」とコブラに訊ねると「死んだナチの亡霊さ」と答えて終わる。しかしどうしてヒトラーの怨念が「コギト、エルゴ、スム」で消えるのか当時はよくわからず、大人になればわかるのかもしれないと期待したが今でもよくわからない。ヒトラーデカルトに傾倒していたという話も聞いたことがない。もっとも当時から「亡霊は実体がないゆえに、思っても我がないから「思え」の命令でエラーを起こすのではないか」くらいのことは考えた。それでも「サラマンダーは○○ゆえに△△でコギト、エルゴ、スムなんだよ」のような明快な答えが得られず気持ち悪い。しかし得られないからこの記憶についていつまでも保温状態を保ったまま自己に問い続けられるのである。明快な答え、理由、根拠とは等号のようなものであり、私たちは等号に慣れすぎてしまっているからそうでないものを気持ち悪く感じてしまうのだ。