意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

おせんぺさんは犬を飼っている

おせんぺさんという私と同じサービスでブログを書いている人がいて、私は前もおせんぺさんの話をしたが、そのときもIDなりブログのURLをはるかどうか迷った。なんとなくおおっぴらにされるのを嫌がる方のように感じたから。なので今回も貼らない。貼らなくても、わかる人ならお馴染みだし、思い当たらない人やたまたまここを訪れた人は、適当な架空の人物だと思ってください。そういう感じでも読むのに支障はありません。

それで私がこれから書こうというのは、最近おせんぺさんが犬を飼い始めたようで、楽しいこともあるが、つらいこともあるようである。私は動物の類を飼ったことが一度もなく、それは私の家族もおそらく同様で、だから一時期金魚だか川魚を飼っていたが、水槽をほったらかしにして、それで全滅するかな、と思っていたら水草だの藻を食べて生き延びていた。おそらく母が餌はあげていたのだ。とにかく水槽を掃除しないから藻が生い茂って中が見えないから、私と兄弟はますます興味を失う。

水槽は引き出しの上にあり、引き出しの上には他にも鉛筆だの鉛筆立てだのセロテープだのがあってごちゃごちゃしていて、あるときその合間に煮干しが落ちているのを母が発見した。
「だれ? こんなところに煮干しを隠したの?」
誰をとがめる風でもなく、独り言のように母は問いかける。私は煮干しなんて家庭科の調理実習くらいでしか使わなかったから、母の言葉を無視してコミックボンボンを読みふけった。そう、煮干しだと思っていたのは、あるとき水面から跳ねた魚があやまって外に放り出され、そのまま干からびた姿であった。ショッキングであったが、どこか滑稽でもあった。それ以来煮干しが食べれなくなったというわけでもない。

これを書いていて思い出したが、高校の頃現代文の教師が「日本一みじかい母への手紙」という本を紹介していて、当時そういうブームがあった。私はそれを見てどうも違和感というか、片手落ちのような印象があり、私は教師や親に恨みなどないが、どうしてその逆はないのかと思い本屋をぶらぶらしていたら「日本一醜い親への手紙」という本を発見し、小躍りしながら購入した。

読むと予想通りというか、私は親にこんな嫌がらせをされた、殴られた犯された的な内容がいろんなバリエーションでつづられていて、書かれた人たち(色んな人が投稿するスタイルだった)には申し訳ないが、だんだんと相対化された。おそらく、親を憎む気持ち、あるいは自分が救われたい気持ちが強すぎて、そういうのが読む側の気持ちを遠ざけさせるのである。競馬なんかで、興奮しすぎた馬が早く走れないのと同じである。伝えたいことはいつでも伝わらない。伝えたいことがもしあるのなら、私たちはクールに伝いたい内容に対し「お前なんて、伝えても伝えなくてもどっちでもいいんだけど」みたいな態度で接し、そのタイミングを息を潜めてじっくり待つ必要がある。

その中で相対化されなかった文章がひとつあって、それは小学校3年生くらいの女の子が書いたもので、女の子はドジョウを飼っていた。もちろんペットとして飼っていたわけだが、父親はドジョウとは食べ物としての認識しかなく、味噌汁にして食べたらうまいと、女の子に幾度も話し、あるときほんとうに食べてしまう。それも隠れてこそこそ、というわけではなく、夕飯に堂々と。父親には後ろめたさは全くない。もちろん、それを調理した母親も同じである。女の子は「わたしはお父さんを許しません」と言葉を結ぶが、とても些細な出来事のように見えるぶん、ずっと心に残る。私たちは大きな出来事というのは、何もしなくても心に残るからじっさいに何もしないが、些細なことというのは、そこに何か意味があるのではないか、普段なら立ち止まらない場所で立ち止まるのだから、重要なことが隠されているのではないか、と思ってしまう。誰でも自分の直感は信じやすい。誰もが自分の行動にはすべて意味があると信じている。

だからそういうのを利用して、自分の言いたいことをわざと小声で話し出す、というのもひとつの手かもしれない。

話が大きくそれたが、犬で悩むおせんぺさんの記事を読んで私は保坂和志という私の好きな小説家のことを思い出し保坂和志は架空の人物ではない。保坂和志は猫をたくさん飼っている人で、犬も飼ったり飼わなかったりしている。それで若い編集者か友達があるとき、
「保坂さんにもし子供がいたら、毎日学校についていきそうですね」
と保坂に言い、保坂も
「そうかもな」
と思う。あるいは声に出す。その根拠がとにかく猫とか動物を保坂は溺愛しているからで、編集者は、猫で良かった、人間だったら相当の変人に思われますよ、という注意を込めて上記のことを言った。実際にそれが書かれたのはエッセイで、「自分は犬をしつけるなんてしない。しつけるなんて、人間本意だからだ」ということも書いてあって、本当に書いてあったかは自信がないが、とにかく保坂家の犬は「お手」だのしない。なんか、盲導犬の話に似てきた。「人間本意」なんて書いたからだ。盲導犬と保坂氏がつながるかはわからないが、保坂さんは、「犬でも人間でも溺愛してかまわない」と言っている。思い出した。別の飼い主が保坂さんが犬だか猫だかをかわいがるのを見て、
「こんなに溺愛していいんですね」
とショックを受けたらしい。だからつまり、犬猫を飼うときに、人間の子を育てるみたいな先入観で人は動物を飼い出すが、そんなの先入観でしかなく、先入観というのはだいたいにおいて間違っているということである。

だからおせんぺさんも気負いせずに、と私はアドバイスしたいわけではなく、その内容が書かれた保坂さんの本をまた読みたいと思ったのだが、おそらく図書館で借りた本で私は立て続けに三冊くらい読んだからどの本に出ていたか思い出せない。思い出せたら、おせんぺさんにもお勧めしたい。