意味をあたえる

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思考力を高めるには

昨日、昌平さんがベケットの「モロイ」を読んでいるとご自身のブログに書いていて、私は嬉しく思った。

モロイを読みながら - 文章または写真、またはその両方

ところで、私は今「プルーストとイカ(メアリン・ウルフ著 小松淳子訳 インターシフト発行)」という本を読んでいて、元は匠習作さんのブログで紹介されていたのだが、とても面白そうだったので私も購入して読むことにした。

『プルーストとイカ』 - takumi296's diary

私はまだこの本を30ページ程度しか読んでいないが、難解なところもあった。しかし先に読んだ匠さんの記事がガイドになってくれているので、本道を外れずにすむことができた。もちろん外れるのも楽しいのだが。引用。

本書の主眼は、読字の文化・歴史的な側面ではなく、生物学的・認知的側面に置くつもりだ。その枠内で言うなら、読字の生成能力は、私たちの脳の回路配線に基本的に備わっている柔軟性に似ている。どちらも、与えられたものの特性を私たちが超越することを可能にしてくれるからだ。この生成能力によって豊かな連想、推論および洞察が生まれるからこそ、私たちは読んだものの具体的な内容を超えて新たな思考に到達できる。確かに、そうするように誘われている。(p35)

最後の「誘われている」が良い。このいくつか前の段落で話がいくらか脱線し、脱線したことを著者も認め、認めることにより読者である私も脱線したことに気づき、しかしそれは決して悪いことではなく、「脱線」こそ読字の中核であると著者は主張する。読字の蓄積によって、私たちは誘われるのである。

ところで今この文章を書きながら、「読字」という文字の並びが出てくるたびに私は軽くつまづいている。そのような単語が私のスマホの日本語入力の変換候補に出てこないからだ。読者の中には、私が「独自」と打とうとして誤字をしていると思う人もいるかもしれない。私は誤字がとても多いから。もちろん、私は意図的に、例えば自分の個性の一環として誤字をしているわけではなく、書いている最中は正確無比な日本語入力を行っているわけだが、しかしあとから読者の引用を読んだりすると明らかな誤字があり、引用とは全体の一部だから、全体としてはかなりの誤字の量になるのではないかと推測される。

それで、「読字」は「読字」だった。

変換候補には出ないので、私はまず「読書」と打ってから「書」を消し、それから「字」を付け足す。この行為が何を意味するのかと言えば、読むのは「書」ではなく「字」であることを取り違えてはいけない、という著者、あるいは訳者の裏のメッセージを読み取ることであった。この本の副題は「読書は脳をどのように変えるのか?」であるが、本当は読書ではなく読字が脳を変えるのであり、しかしこの主張が本という体裁でなされる以上、書を裏切るわけにはいかず、「読書」という言葉をつかわざるをえなかった。マーケティングの都合もあるだろう。

私は以前にも「読むとは書くことであり、書くとは読むことである」という仮説を立てたことがあったが、以上のことから、私の仮説の片側が裏付けられてしまった。

ところで以下に書くことは、私が読書ではなく読字である、という裏メッセージに気づく前に考えた内容なので、書の話だが、気にせず読んでほしい。

私は冒頭の昌平さんの記事でモロイを取り上げたことを読みながら、ふと保坂和志が「考える練習」という著書の中で、若い編集者に物を考えられるようにするためにはどうするか、という問いに、
ベケットを読め、ということになっちゃうかなあ」
という風に答えていた。その答える感じが、他にも色々方法はあるけれど、いちばん手っ取り早いのは、モロイを読むことであるという風であった。モロイを読むことがどうして考える練習になるのかを説明すると、モロイは、もちろん私の知る限りであるが、他のそれらにはない文の並び、単語の並び、文字の並びがあるからである。という説明ではいかにもツマラナいので、私が覚えているぶぶんを書き出すと、私は少し前にモロイを二章にあたるぶぶんを読み出したが、二章は刑事が主人公でそこに連絡係がモロイ捜索の命令を預かって、主人公の家にやってくるのだが、最初は普通の刑事ドラマのような雰囲気で、普通の刑事ドラマとは複数の刑事がスピード命と言わんばかりに素早く行き交う雰囲気で、モロイ捜索も最初はそういう素振りを見せるのだが、連絡係とは実はやってきた彼一人で、預かってきた、といってメモを読み上げるが彼にはメモをとるという能力がそもそもないから適当なことを言っている、とか、刑事も実は自分しかいなくて、他の刑事には会ったことがない、というかそもそも存在しない、とか、頑なにストーリーを進めさせないような、特別の力が場面に働いている。書いた人が異常なのだ。特別な力、というとストーリーは進まないが、読んでいてちっとも苦にならない、などのポジティブな側面もありそうだが、そういうのはなく、読むのは苦痛だ。だから力ではなかった。私自身一度は最後まで読めたが、それは保坂和志などが勧めているから、という理由があったからだ。

私としては頑張って読む読書、というのは自分にも他人にも絶対にやらせたくはない行為だが、こうして字を追うことが思考を新たなステージに押し上げる、というぶぶんに関しては、残念ながら「モロイ」が最適だと言わざるをえない。

例えば学校の先生などが、クラスの生徒に
「本を読みなさい、読書はその人の心を豊かにします」
などと言うが、そう言う先生の方は言うほど読んでいるのか、と思う。もちろん読んでいます、と彼らは言うのだろうが、しかしまともな本一冊読んだことのない人間(生徒のこと)が行う読書という行為くらいの負荷のある読書を、先生の側は行っているのだろうか。例えばベストセラーを10冊読みました、と言ったとしたって、子供からしたらポケモン100匹確保しました、くらいのものなのかもしれない。私は、先生は仕事で忙しいから、よほどの変態でなければ、子供と同じ負荷で本を読むのは無理だと思う。だから、大人が期待するほど子供が本を読まないというのは、子供のほうに、そのアンフェアさを見透かされてしまっているせいだ。もしもっと読んでもらいたいというのなら、徹底的に騙し通すか、あるいはもっとへりくだる必要がある。