読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

わたしはあなた

昨日Twitterで、
「「私とは、あなたのことである」というのが理解できない」
というつぶやきを目にして、私からしたらたまに話しかけるくらいの関係の人だったので、
「ああそれは○○みたいな考えなんですよ」
という風に自分の思慮深さをひけらかそうと思ったが、いざ文字を打とうとすると、肝心の「○○」に何を入れていいのかわからなくなった。「私」が他者に融け込むかんじ、あるいは「私」をどんどん突き放して突き放して、豆つぶみたいにするかんじ、というのは「かんじ」しかなく文字にできないものなのだろうか。あるいは、書いている最中にしか存在しない論理なのだろうか。

今日は他人の声について触れたい。

昨日の記事で私は、自分のかつて住んでいた家の本棚のことと、公民館で私が本を借りパクしたとの疑いをかけられたが、それは全くの濡れ衣であり、私は確かに低学年の頃にはそこでカブトムシの薄い冊子を借りたこともあったが、もう何年も前のことだからはっきりしない。それ以降は図書室にも入っていない、という説明を母にすると、母は本棚の本を一通りチェックした後に公民館に電話をかけ、
「息子は低学年のころにカブトムシの本は借りたかもしれない、と言っていたが、そちらの言う本は借りてはいない。実は息子は去年の小学四年のときに、クラスのあるグループからイジメを受けていました。それはかなり陰湿なもので、給食に粘土や安全ピンを入れたり、リコーダーの手入れ用のプラスチックの棒をへし折ったりされました。漢字書き取り帳で頭を思い切りはたかれ、頭から流血したこともあります。もっとも、息子は頭の皮膚が少し薄いのか、以前にも近所の病院の看板の角に頭をぶつけて血を流したことがあります。そのときは妹が風邪を引いてやってきたので、息子の方は元気だったのです。とは言うものの息子は2歳のときに小児喘息を発症したので、体の丈夫さで言えば息子の方がずっと下なのですが。もしかしたら息子の病弱さが、いじめの原因なのかもしれませんが、私たち夫婦はそんな風には考えていませんでした。息子が本を借りたというのは去年ということなら、おそらくそのグループの誰かが、息子の名を騙って借りて、そのまま盗んだのでしょう。息子をイジメていた中心人物はタナベとナカムラという名前ですので、そちらを当たってみてはいかがでしょう」

母は食器棚の前で受話器を握り、しゃがんだ体勢で話していた。電話は食器棚の上の段と下の段の間のスペースにあった。電話機の横に電話帳が平積みにされ、しかしそれは誰もめったに開かないからホコリがかぶっていた。母は下を向いてしゃべっていたが、私が母のことを見ていることに間違いなく気づいていた。父は仕事の帰りが遅いので家にはいなかった。妹と弟はどこかしらに存在した。私は三人兄弟だったから。

という旨のことを、私は昨日の記事で書いた。「昨日」というのが、一体いつのことを指すのか、まったくなんの担保にもならない言葉だということは、私も書きながら身にしみて理解しているのだが。とにかく、書いた。すると、ほどなくして、珍しく複数のコメントがついた。しかしどれを読んでも、
「私も自分の書く字がとくに上手いわけではないが、1年に一度くらいは「うまいね」と褒められる」
という内容だった。字は心をあらわすというのは嘘だと思う、というのもあった。どうしてこういうコメントがついたのかと言うと、そもそもの書き出しが、私はとくに字が上手いわけではないが、稀に褒められる、というものだったからである。タイトルもそれに絡めたものだった。タイトル、というのは私にとっては書く以前の思考であり、本文は書きながら考えたことだから、こうしてズレるのである。以前私のブログに、
「私は、あなたのブログは二行か三行しか読まない」
というコメントがついたことがあって、そういうのは酔狂だと思ったが、意外とそういう人は多いのかもしれない。

しかしそれでは後から書いたものはぜんぶ無駄なのかと言えばそうではなく、あくまで私は全体で私なのである。おそらく、昨日の記事にコメントをつけた人は、最後まで読んだと思う。コメントそのものは、タイトルに関するものだが、コメントをつけるという行動に至らせたのは、私のカブトムシの冊子のくだりであり、中国語の西遊記なのである。だから、書いたものを部分部分で考えるのはナンセンスだ。