意味をあたえる

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志賀直哉「佐々木の場合」

最近日本の文学をちょこちょこ読む少し前に川端康成を読んでこの前は太宰で昨日は志賀直哉を読んだ。ここまでくれば文学と呼んでいいだろう。ぜんぶ短編である。どれも大して心に残らずスナック菓子を食べているようである。気楽である。川端は伊豆の踊り子太宰はトカトントンが読みたくて読んだが志賀はこれといってないからとりあえず最初の「佐々木の場合」を読んだ。「佐々木の場合」は一言でいうと女児が焼かれる小説である。女児が焼かれ女中が負い目をかんじて尼のようになりそれをどうにかものにしたいと企むのが主人公の佐々木なのである。志賀は佐々木の相談を受けていて佐々木も佐々木だよなあみたいなみたいに思って話は終わるのである。似たような話をどこかで読んだ気がする。焚き火でいきなり栗がはぜて女の顔面に直撃し女が失明するという話である。だから私は最初混同していて女児が失明するのかと思っていたら焼かれただけだった。どちらにせよ私は女児というものが憎いからそれが痛い目を見るのは爽快だった。しかしはぜた栗が直撃するほうがいくらか気楽で焼かれるのは気の毒だった。どっちにしても一生の傷が残るのだが。主人公の佐々木も女児を憎んでいてそれは女中と佐々木が逢い引きするのを女児が本能的に察知して妨害するからであった。しかし自分が強引に女中を影に呼び出しキッスを強要している隙に女児はうっかり焚き火の中につっこんでしまう。その後佐々木の心理描写が続き私はそこにリアルをかんじるがもうだいたい忘れてしまった。佐々木の自信過剰で自己中心的なぶぶんが傲慢さを呼び傲慢さが他人の感情や空気に対しての感度をにぶらせるのである。それに対して志賀は「あーあ」というかんじでだからそこで深刻さは一気に薄れるのである。お馴染みのというかんじになってしまう。


中学のころに悪い人ではないがぜんぜん空気が読めないというかそういう書き方をするといかにも発達障害みたいだがそうではなく笑いのセンスが絶望的にないというかなんでそこでみたいな箇所で「ズコー」とこけたりして知り合ったばかりのころは唖然とした。極めて真面目な人で人を騙したりはしないし(中学のころは笑いのためなら人ををだましたり傷つけることに躊躇しない人が大勢いた)気遣いも人一倍してくれた。ところが授業中は寝ていることが多く寝ていなくても半目でうつらうつらしていることが多かった。理由を訊ねると親が大変厳しく夜遅くまで勉強しているからだそう。当時の私はこれが教育ママというやつかと思った。しかし松本の成績は抜群に良いというわけではなく教科によっては中の下だった。私は自分の母親に松本の話をすると母の印象では松本の母はそんなに厳しそうな人ではないとのこと。当時の私は内面の厳しさは必ずしも表面に出てくるわけではないことを見抜いていたが今思うと松本は深夜ラジオでも聞いていたのだろう。松本の見栄も幾分ずれているのであった。