意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ぶれない俺

昨日
Twitterでもやろー」
と思ってタイムラインを更新したら上記の記事を紹介するあじさいさんのツイートが出ていて、読んだら面白かったので、コメントを残そうと思い、コメント一覧を開いたらすでに自分の
「おもしろい」
というコメントが残されていて、これはどうしたものかと困惑した。私が二重にでもなってしまったとでも言うのか。記憶障害か。たしかに私は子供の頃から自分の内側に、外側の自分よりもひとまわり小さい自分が一揃い揃っている空想をよくした。それでも私はコメントを残したかったが、確かこのブログサービスのコメントは、同じ人が二回はできない仕組みだったから、しかも同じことを書こうと思っていたし、だから私は二重にはなれなかった。本当は、おもしろいよりももっと具体的なことを書こうと思ったが、二重のインパクトでおもしろいしか残らなかった。

落ち着いてから記事の日付を見ると、一年前に投稿された記事であり、一年も前の記事をさらりと紹介してしまうなんて、あじさいさんはなかなか食えない男である。私が上記の一連のことをあじさいさん向けにツイートすると、
「引っかかった」
と無邪気に喜んでいた。引っかけ問題ということだった。

しかし私は一方で一年前におもしろいと思ったことを再びおもしろいの思えたから満足なのだった。
「ぶれないな、俺」
と思った。しかし記事を見ると「おもしろい」とコメントしているのは私だけなのは寂しいので、これを読んでいる方も、あじさいさんの記事を読みなさい。とても癒される文章なのである。

あじさいさんの記事は脱力がすごく、読む方に何も気負わせないところがすごいのである。面白いブログ、文章というのは他にたくさんあるが、面白いものを読むとたとえば、この人の面白さの根源てなんだろうとか、場合によってはその面白さを参考にしよう、盗んでやろう、と考え、考えるということは、参考にしなければならない、盗まなければならない、というふうに自分に負荷をかけてしまうことだが、あじさいさんの記事にはそれがない。あじさいさんは、何も考えずに書いている。だから、読む方は早い段階で諦めの境地、
「あじさいさんのようには、いくら努力したところで書けない」
と悟るのである。だから、やさしい。

上の記事では犬を飼う可能性について述べているが、まず可能性といったら、たとえば友達の飼っている犬が子供を産んだとか、恋人が捨て犬を拾ったとか、そういうきっかけがあるものだが、文章のなかでそのような記載は一切ない、
「俺犬とか飼ったことないけど、そのうち飼うかもなあ」
くらいのノリなのである。それを「可能性」と表現する。だから、あじさいさん以外の私たちは事件とか出来事に縛られているというか、何かが起きたから、次にはこれが起こる、みたいな順序正しい思考しかできない、ということを思い知らされるのである。

その後、枝豆チップスの話に突如なり、読んでいくと、枝豆チップが今度は犬の代わりとして登場し、あんなに嫌いだった枝豆チップを、仲間が引いてしまうくらい夢中で食べてしまう。つまり犬も同じように、飼ってみたら毎週ドッグランに通うくらい夢中になってしまう、ということなのかもしれない、と私たちは解釈するが、実は記事の中で「犬、すなわち枝豆チップ」という記載は一切ない。つまりあじさいさんの中では、犬は犬、枝豆チップは枝豆チップ、なのである。もちろん犬と枝豆チップを一緒くたにしても良い。

よく下手くそな文章の中には、口うるさい母親のような、終始注釈や補足ばかりのようなものがあるが、そういう人はもっと読む人の読解力を信用し、乱暴に書くべきなのである。