意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

宮沢賢治はとくべつなのか

今月の百分で名著が宮沢賢治で読み上げられた文章を耳にすると割合きれいな言葉クサい言い回しをしているとかんじ私は大抵そういった類は避けて通るようにしていてこの感覚はおそらく万人に通ずるものであると思うがそれでも宮沢賢治が評価されるのはなぜなのか。


そう思いつつもインターネットで改めて番組で取り上げられたコロナの詩を読んでみると思ったほどきれいでもなく杉の木がびろうどや昆布に例えられている。番組では生み出すのではなく自然が発する記号をキャッチしてもっともふさわしい人間語に置き換えるのが創作のエッセンスだとか語られていたが果たしてそうなのか。だけれども「宮沢賢治は家が金持ちだから」と講師の方がおっしゃって確かに食うに困らなければこんな悠長なこともできるのかもしれない。やっぱりテレビ番組だからつじつまの合うような取り上げ方をしてしまうが改めてコロナの詩を読むと思っていたよりもずっと長く書いている意味が拾えない。少し前に「春と修羅」を買ってみたがやはり同じ感情を抱いた。宮沢賢治の文章は激流である。とりつく島がない。しかしそれでも青空文庫のコロナの詩は読みがなが振ってあってインターネットの仕様なのか読みがなが振られると字そのものが小さくなってうっかりすると読み飛ばしてしまう。そうすると親しみやすい平仮名にすがるような読み方になり一応読んだ気になる。


春と修羅の書き出しの「わたくしという現象は......」という辺りはいかにもインテリぶっていて好感を持てるがしかし全体としてはなんの話なのかわからない。やさしそうな語り口であるが暴力的である。そういえば私は暴力的な文章(あるいは自意識に挑みかかるような文章)が好きであったがこんな風にとまどうのは宮沢賢治がインテリだからかもしれない。私の知っている暴力的な人は知識との共存をあきらめた人かそもそも知識と無縁の人だった。そうしたら宮沢賢治こそハイブリッドで最強じゃね? と思った。

悪夢のような

昨晩友達と飲みその前昼間に小腹が空いたからとよくわからない名前のクラッカーを食べた。前日に子供が小さいクラッカーを食べていて一枚分けてもらったらおいしかったので今日はクラッカーを食べようと思った。私は今でもお菓子を購入するときに後ろめたさをかんじることがありしかし大人だから大丈夫だと気を取り直し大人になって本当に良かったと思っている。大人は何を食べようが食べまいが自由なのである。しかし妻子がいたり健康の限界があったりするからその自由は限定的なのだが。


リッツを食べようと思い翌日セブンイレブンに行ったらなんとそこにはリッツも類似のクラッカーも何もなく仕方なくPASMOのチャージをして店を出た。PASMOのチャージは翌日今度は会社の飲み会があって電車で会社に行くためである。電車とバスに乗らなければならなかった。子供の頃バスというのはとにかく時間通りにこなくて待って待ってようやく来るという極めてストレスのたまる乗り物だった。都会のように来たバスに乗ればよいという発想では平気で一時間二時間待たされるのが田舎なのである。だから時刻表に並ぶ数字を穴があくほど眺めその前に当時はインターネットはおろかデジカメもないからバスの時刻を把握するためには一度バス停に行って時刻表を手帳に書き写さなければならなかった。私の家からバス停は昔は近かったがいつの頃か場所が変わりしばらく歩いて歩道橋も渡らなければならなかった。そうなると少し余裕を持って家を出ようという発想になって余計に待ち時間が増すのである。暇だったので道端の日産のディーラーの壁によじ登ったりして時間をつぶした。バスに乗るのはおばあちゃんちに行くとか祭りに行くとかそういう楽しい気持ちのときなのでなおさら待ち遠しかったのだろう。電車もそうだが大人になると色んな感情で乗るようになりそうなると子供の頃の楽しい感情が上書きされてしまうようで空しい。通信に関してはかなりのイノベーションがあって黒電話だとかは子供の頃に居留守を使った感情そのままで残ったが乗り物は私が子供の頃とあまり変わらなかったのでやはりそう考えると何か乗り物に乗るとその度に過去が消えそうだから家にいたい。


私は復刻版というのにはあまり嬉しがらないたちでそれはドリフの全員集合がDVDになってやがていくらかテレビ放送されたとき私は子供の頃ドリフが大好きで笑いすぎて喘息の発作を起こすくらい好きだったが大人になって見たらつまらなかったので以来過去にこだわるのはやめた。

花粉・症のピークが過ぎた

一昨日くらいに鼻水がとめどなく流れ今年は花粉が強いのか薬が弱いのか薬を飲んでいても鼻がつまってここ一週間は寝るときはマスクをして朝起きると口の中がカラカラになっている。去年まではここまでじゃなかった一昨年くらいから病院に行くようにししかし去年の医者が「薬出すけどこれ市販のと同じです」と言われバカバカしくなって今年は最初から市販薬のみで済ますことにした。花粉症のベテランは行きつけの病院を持っていてシーズンが始まる前から薬をもらったり注射を打たれたりして「もっと早くこなきゃ」と注意を受けるのを自慢の種にするが私はそういう医者にめぐり合ったことがない。そもそも花粉症は何科にかかればいいのかわからない。耳鼻科か眼科というのが普通だろうがベテランに訊くと「なんでもいい」と言う。なんでもいいとは内科でもいいということだ。そこでシーズンいっぱいの薬(1ヶ月とか2ヶ月)をもらい薬の量を自慢する。私は生真面目に耳鼻科に行ったらさんざん待たされた挙げ句に2週間ぶんしかもらえなかった。内科はおおざっぱな人が多いのか耳鼻科が几帳面すぎるのか次も来いということなのだろうが私は行かない。


思えば2010年くらいまで自分が花粉症だとは認めていなかった。2010年の春に公園で電話をしていたら相手に「すごい鼻声だね」と言われ「花粉症かもなあ」と思ったのが最初だ。そもそも私はアレルギー体質で季節かかわらずくしゃみ鼻水が出て幼い頃鼻をすする仕草を父は「ハーモニカ」と名付けた。ハーモニカが出るのは気圧が不安定なときだった。それが成長にともなって徐々におさまってきたのと同時に花粉症が出てきた。というより花粉のアレルギーだけが残ったのだろう。そして年々ひどくなった。


最初は現実を直視しない作戦に出て鼻水が出るのは風邪のせい目がかゆいのは春で眠いからだと自分に言い聞かせたが私は風邪は喉からで一昨年くらいから頭痛がするので春ばかり鼻風邪を引くのは不自然だからとっとと方針を変えることにした。


とにかく今年は夜寝るときが苦しくて不快なのでまずは薬を替えようかと思いネットを物色したりした。これが効く効かないはあまりあてにしないことにした。そういえば去年の医者は最低だったがその前のは鼻の薬をくれてたことを思い出した。しゅっしゅと朝晩律儀に噴霧していた気がする。それは市販では手に入らないのだろうか。


それが今日になって正確には昨日の夜から症状が一気に緩和した。昨日は雨だから花粉もそんなではないと判断したが今日は朝から晴れだし特に雨上がりは花粉がよく飛んでしんどいからこれは花粉か私のほうになんらかの変化があったのだと判断した。昨日お天気を見たら今日の花粉はMAXだとあったから私のほうがピークを越えたのだろうか。

渋谷まで何キロ

妻に訊かれて渋谷まで何キロか調べた。渋谷に用があるらしい。用があるのに電車とか道路を調べずに距離を訊いてくるなんて。およそ60キロほどであった。私は距離の感覚がイマイチで「何キロ?」と訊かれるとなんでもかんでも「100キロ」と答えそうになるが100キロなんてそうそうあるもんか。と思ったがよく高速を走っていると「東京まで235キロ」とか目にする。群馬とかだろうか。群馬には利根川を越えていく。利根川は素晴らしい川だ。小学校のクラスには利根川が二人学年全体では三人いたがみんな利根川のすばらしさにあやかってつけたのだろう先祖が。先祖がどんな顔をして初めて名字を決めたのか見てみたい。


そういえばこの前実家で父と父が小学三年くらいまで牛を飼っていた話を聞いた。牛は野良仕事では大切な財産だから人間と同じ屋根の下です飼われていたそうだ。一方私の父の実家は田んぼからくると坂の上に家があって牛は重い荷物を引かされながら急な坂を登らされ涙を流していたそうだ。確かにそれなりの坂だ。私が生まれて初めて登った坂もそこではないだろうか。自転車で降りずに登ったりした。父が小三になって家にマメトラが来て荷物は車が運ぶようになり牛は肉にでもなったのか。まさか今もどこかで生きているなんてことはあるまい。それから二十なん年経って祖父が死にまた二十年経って祖母が死に父もあと二十年は生きられまい。私もそのうち死ぬだろう。みんな牛を追って死に牛をおぼえている人はいなくなる。私は父が子供の頃に布団にもぐり込んできた蚕を潰した話などを子供たちに聞かせたかったが父はしなかった。蚕は私が幼い頃にはまだ古い家にいて新幹線のようだった。土間に屋根裏に行くハシゴがかけられ最後までそれを登ることができなかった。私の子供はそういうことを知らない。祖父母の家はとても広く1000坪くらいあって竹藪もあったが私の成長にあわせてどんどん小さくなった。古い家はあぶないからとつぶされた。トイレは残っている。私の家の方は古いトイレが残っている家が多い。トイレは丈夫なのだ。義母の実家にも別棟のトイレがありそれはコンクリートの壁であと数十年は保ちそうだ。「誰があんなところで糞をするか」と義父が吐き捨てた。私も極力水分を取らないようにしたい。

ガムが不快に

いつの頃かガムを噛むことに不快をかんじるようになった。何年か前に歯の根元が腐っていると言われ抜こうか抜くまいか悩んだが最後は半分だけ抜くという案で妥協した。インターネットを調べれば抜かずに治す方法はいくらでもありそうだったがそれだけの行動力は私にはなかった。東京に住んでいれば違うのかもしれない。しかし東京というのは何にしても数が多すぎる都市なのでかませ犬的な店や施設も相当ありそうで客側にもリテラシーを求められあるいは歯医者にしても相手はもうすでに何軒かの同業他施設に行っているというていで接客するのかもしれない。そう思うと「ぜんぶおまかせです」みたいや顔をしていくのに気が引けて私の歯茎はどんどん溶けてしまいそうだ。歯医者ではないがリテラシーと言えば昨日はSUBWAYに行き私はSUBWAYは初めてではなかったがやはり緊張した。店員がパンはどうするとか野菜はどうするとかいちいち訊いてきて腹立たしい。やっと終わったと思ったら「ソースは?」と訊かれ面倒だから「おまかせで」と言ったら若い男の店員が困った顔をした。男はキャップをかぶっていた。男がキャップで女がハンティングキャップだった。私は意地悪でお任せと言ったわけでなくソースの貼り紙が太った女の客の体で隠れていたからソースの選択肢が把握できなかったのである。「おまかせ」が困るのは私も重々承知している。私も昔コンビニで「おでんちょうだい」と言われて戸惑った。客はおでんという概念を求めてやってきた。私がトングを掴んだまま固まっていると不思議そうに「おでんだって、おでん」と畳みかけてくる。やがて客が大根をおでんと言い間違えていることが判明しお互いににこやかなかんじになった。つまりおまかせではなかった。ちなみに「適当に」はある。店のオーナーが店に電話をかけてきて「なんでもいいからお弁当持ってきて」と言ったことがありどこに持って行くのかというと裏の畑を挟んだ向かいにある焼鳥屋だった。私が弁当を温めて畑をつっきり焼鳥屋に弁当を届けるとオーナーは焼き鳥を10本くらいお土産です持たせてくれた。私はその日誕生日だったからである。誰かがイタズラでシフト表に私の誕生日を書き込みオーナーがそれを見たのだ。一見いい話だが実はオーナーはその焼鳥屋の女主人と愛人関係で私はうまい具合にダシにされたのであった。

焼き鳥の「皮」もガムに似ているが噛んでいて不快ということはない。

もう4時かと思ったら5時だった

本屋へ行き本棚の向こうに円形の時計があり本棚で下半分が隠れて短針が見えず長針が12の付近をうろうろしていたから4時かと思ったら5時だった。本屋にいた。妻を駅に送った帰りだった。妻は謝恩会に行くという。4時10分の電車に乗ると言っていた。本屋で私がうろうろしたから4時とはありえなかった。うろうろしたのは妻を降ろした後である。本屋でパズルコレクションの最新号を買おうと思った。予想したとおりなかなか見つからずうろうろした。休日なので混んでいた。ピアスをした男が歩いていた。「嫌われる勇気」が一回り小さくなった気がする。文庫になったのかもしれないが文庫にしては大きかった。妻の勤め先にしょっちゅうパソコンを叩いて怒ってばかりの人がいるという。私はそれはつまり怒る理由が欲しくて性能の悪いパソコンを使っているわけで仮に最新のパソコンを購入してもOSが違うとか別の怒りの種を見つけるだけだと妻に言った。嫌われる勇気風の解釈である。何にでも応用できそうである。


今読んでいるのはアマゾンの「歴史」カテゴリーの上位に入っていた本を衝動的に買ったものでタイトルはわからないが上下巻のセットである。Kindleで買ったから私が今書くのを中断してアプリを開けばすぐにわかるがわからないのがその作業が面倒だからである。その辺が紙の本に劣ったぶぶんである。電子書籍は肝心のところでタイトルがわからなかったりする。関係ないがホリエモンの本を立ち読みしたら「アマゾンは別に本が好きだから本を売り始めたわけではなく小ロットで何とかだから本を扱い始めただけだ」と書いていて腑に落ちた。「金持ち父さん」だかに書いてあった「マクドナルドは正確には飲食業ではなく不動産業である」というのと似ていると思った。似ていない。もっと単純な話である。とにかくこの世界は思い入れとかそういうのが少ないほどうまくいく。そう考えると他人に趣味をすすめてくるのは相手を蹴落とす一種の作戦なのである。もっとドライに冷静に効率的なもの付加価値の高いものを見極めないといけないのである。


その、今読んでいる本は歴史の本で気に入ったのはホモサピエンスは小麦を家畜科したが同時に人類が小麦に家畜化されたのであるという表現で確かに人間が小麦のためにあくせく働き小麦は自身の遺伝子を世界中に増やしているので小麦は大成功なのである。

あとこの手の本を読むと最近ではかなりの確率で映画「マトリックス」が出てくる。昔勤めていた先の社長は最も影響を受けた映画として「マトリックス」を挙げていて意外と底の浅い人物だなあと思ったがマトリックスを見ておくと色んな場面で役立つ、マトリックスは数字の映画だが映画自体も記号であり汎用性が高い。だから戦略的に人生を構築したい人は「マトリックス」はぜひ観ておくべき映画だ。私は回を追うごとに話がよくわからなくなった。

腸内環境

最近腸内環境が今ひとつなので腸内環境と検索したら広告ばかりでげんなりした。というよりこんなに広告が並ぶなんて初めてだから戸惑った。どこまで行っても広告なのである。いわゆる人気ワードバズワードなのだろう。検索好きからしたらこの程度の広告の量は日常茶飯事なのかもしれない。私は戸惑った。私は普段はあまり人気のない検索ばかりしているのかもしれない。楽天とかアマゾンが圧倒的に多い。しかし滅多にクリックしない。たまに広告がアマゾン結果もアマゾンということがあってそういうときでも結果のアマゾンをクリックする。広告が嫌いなのだ。新聞の折り込み広告みたいにきっちり棲み分けができているのは良い。あと中吊り広告も好きだ。私は中吊りのでは昔あった「□い頭を○くする」というシリーズが好きだった。算数の問題とか大変暇つぶしになった。私は四人の登場人物のうちひとりだけ嘘をついていますみたいな問題に目がないのだ。いちいちAから順にこの人が嘘の場合とかやるのが良い。大抵BかCが嘘つきで心なしかずるっこい顔つきをしているのだがそれでもDが嘘でないこともきちんと検証する。もう犯人はわかっているからDの真偽はあっさり判明する。それ以外の週刊誌の中吊りも独特の日本語が好きだ。対照的に鉄道会社やデパートの広告は退屈だ。鉄道会社の広告を見るなら路線図を眺めるほうがよほど暇つぶしになる。私が学生時代に乗った路線は今や快速とか急行とか増えてちょっと私にはついていけない。昔はどの種別ならどの駅に停まるとか頭の中でイメージできたが今は難しい。子供の頃トランスフォーマーにハマって色んなロボを集めたとき父が「どれもおんなじじゃないか」と言ってきてどういう神経(視神経)をしているんだと思ったがついに私にもそういう瞬間が訪れた。気を抜くと「どれに乗ったって同じだろ?」と言ってしまいそうだ。しかしそういう過去の出来事が消えない限り私はすんでのところで言わずに済むのである。