意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

村上春樹「国境の南、太陽の西」

最後有紀子とヨリがもどせて良かったねと思った そのきっかけのひとつがイズミとの邂逅だったことは以前読んだときには気づかなかった もし私がイラストを生業(あるいは趣味でも)にしていたら「表情のないイズミ」にトライしていたと思う


小説としては後半に差し掛かるにつれ退屈になった 島本さんとのセックスが近づくと一気に読み飛ばしたい衝動にかられた ストイックというか私としてはもっとダラダラしたところが欲しかった

小鉢

カイシャの近くにあった和食やさんで昼を食べたらカウンターでたべたら週間少年ジャンプに包丁が突き刺してあって「これも昭和かな?」と思った 二階に盆を運ぶリフトがあったり等 カレンダーの毎週水曜が水色に塗られていて「定休日ですか?」ときいたら「市場の休み」なのだそう 私は地理がてんでダメだから「8丁目の辺り?」とか言われると弱ってしまう 「川の近くです」と言っても通じない 「左側?」には参った 東西南北は全国共通ではないのか 面倒なので適当に相づちをうった 静岡の話になると「静岡はよく紙が降る」と言った ほんとうだろうか?

音楽の下地

この前ひさしぶりにCDで音楽を聞いたんだけどCDの中心の穴をデッキのでっぱりに差し込む動作に懐かしさをおぼえた ぼこってかんじではまるのが気持ちよかった ストリーミングで聞くよりもずっと自発的に聞いている気がする 音楽には音のないぶぶんも含まれるということを悟った ビルエバンスのワルツフォーデビーを聞いたあとにシーンとなってそれも音楽だということにようやく気づいた それは無音も音楽という意味ではなく音楽を聞いた後の耳は引き続き音を探していてその際ノイズのような音が物理的に鳴る それが心地よいのである


私は音楽プレイヤーの「キュー」という機能が最初理解できなくてどうして先々に聴く音楽を決めなければならないのか理解できなかったが音楽を好きな人の多くは音楽が途切れることを良しとしないようである 私はすぐ気が変わる性格なのでキューにセットしてもすぐに別の音楽を割り込みそれが終わると元のキューに戻るがそのときに下地が露出したような気持ちになる

夏のようだ

雨があがると蒸し暑くなって夏のようだ 毛布はいらない 机の上にメモがあってそこには「平成もおわりですね」と書いてあった そんなことには無頓着だったので最初は仕事の引継事項かと思った もちろん引継事項は書いてあって余白に「平成もおわりですね」とあったのである 倉庫の冷房を入れたら寒いくらいであった みんな暑い暑いと言っていたが私は寒かった 冷気が二の腕にあたるとしんどいかんじがした 夏が十年ぶりくらいにきたかんじがした 去年はよく草むしりをしてしていたら当時の同僚に「スズメバチが出るからやめたほうがいい」とアドバイスされた


暑くなったらいろいろ思い出すこともあるのかしら

一生懸命は×

私の努力観とおなじ類いの話だが最近一生懸命やる人はダメだなと思った 個人でやるならまだいいが集団だとその一生懸命を周りにも求めるようになって周りがしんどくなる 人は誰でも自分の努力を低く見積もる傾向があって自分のしてきたことは誰でも簡単にできるものと錯覚する 同じように自分が一生懸命なら周りもだいたい同じだと思い込む しかし人のモチベーションだのは人それぞれなのだから自分の行動は自分の中で完結しなければならない 決して誰かのために行動してはならない 自分の行動が誰かにどのように影響をあたえるかは出たとこ勝負でありそこに期待をするのはリスクが大きすぎる

自転車

ふとしたきっかけで上司と自転車のパンク修理の話になって上司はパンク修理をしたことがないという 私は中学高校時代は自転車で通学していて高校は電車で通学したが駅まで4キロくらいあったから自転車だった そしてよくパンクさせたので父から自分で直せと言われたからあるときから自分で直すようになった その前は父が修理するか自転車屋が直しにくるかだった 稀に自転車屋に私が行くこともあった 自転車はパンクしてもなんとか乗れるがそうするとチューブが穴だらけになるからと怒られた 自転車屋がくると話し相手にならなければいけないから面倒だった 何を話したか忘れたが私はしきりに「健康がいちばんだから」と言い続けていた 知ったような口をきいていたが腹の底では健康は二番か三番だった気がする かと言ってじゃあ何がいちばんなのかはやはり思い出せないのだが