意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

相対化

リョナという言葉を昨日初めて知った。
確かにビーデルさんがスポポビッチにいたぶられているのを見たときには、興奮をした。いつまでも見ていたいと思った。それが性的な興奮かはよくわからなかったし、オナニーもしなかった。それがどういうメカニズムの興奮なのか、説明しようとすればできそうだけど、つまらなくなりそうなのでやめておく。あれは何歳くらいの出来事だったのだろう。
そしてこの感覚はおそらく自分だけのものだと思ったわけだが(本当に思った?)昨日再放送があったらしく、再放送に関わらずネットでは注目ワードに上がったとか。そして、私はリョナという言葉があることを知った。
全ての感覚・行動は相対化される。
私は少し前に、若い人が選挙に行かないのは、どうせ俺ひとりが選挙に行ったところで候補者の当落が決まるわけじゃないし(a)と給食を残すことは食べるのに不自由なアフリカの子供に失礼だという考え方はナンセンスだ(b)というのは、根本では同じくことではないかと考えた。つまり自分の行動が相対化されるとするならば、それをひっくり返すと、つまり自分がある特定の感覚を伴って行動するならば、同じように行動する人はそれなりの数がいるということだ。(a)自分がある時「俺もそれなりにいい歳だし、少しは社会と関わってもいいかもな」と思って選挙へ行くと、同時に何百人か何千人の人も同じことを思って選挙へいく。(b)さらに拡張していけば、給食を残さず食べることが、アフリカの子供の腹を満たすことにもなる。

この、感覚の相対化、が私にとって希望と呼べるのか、絶望なのかは今のところわからない。

という感覚を抱いている人も大勢いるのだろう。ハロー、お元気ですか?