意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

道順

車で通勤するが、飽きてくるので定期的にルートをかえている。今の職場は車で30分弱のところにあり、ルートは大まかには2つ、中まかには3つ、細かく分けるとその倍くらいある。最近も新たに開拓したルートを通っている。私はだんだんと、大通りを通るほうが好きになった。人によっては最短ルートを通ることを良しとして、かなり細い道をくねくね走ったりするが、そういうとき、壁には政治家の静止画(ポスター)が貼ってあったりする。私は、
「よくもこんな細かいルートを通れるものだ」
と感心したりするが、本当に早いルートなのかは謎だ。そういうルートを選ぶ人は早く着きたいというよりも、なるべく止まりたくない、という欲求が強い人に感じる。私も車を運転していて長い時間止まるとストレスを感じる。しかしそれよりも特に朝などは、信号でとまれることを「ありがたい」とすら思う。なるべく信号のない道は早道の王道であるが、そのぶん裏道であることが多く、止まれの標識で止まるほうが多い。止まれで止まると、左右から車や歩行者は止まってくれないから、いつもぶつかるかどうかを頭でシミュレートしなければならず、それが億劫だ。しかしそれは運転者の義務だから、サボるわけにはいかず、ブロック塀のせり出した家などの横を通るときは、上体を前屈みにして首を一生懸命のばさなければならない。ブロック塀からは柿の木とそれになる果実が見えた。思惑よりもスピードの遅い車だとイライラするし、逆だとハラハラする。さらに後ろに車が詰まっていると、プレッシャーもかんじる。私は免許取得時の適性検査では、「同乗者に自分のドライビングテクニックを自慢しがち」みたいな評価を受けた。それ以外はふつうであった。

その点信号機はある程度待ちさえすれば、強制的に流れを止めてくれるから、そういうぶぶんでは楽だ。さらに大通りだと、歩行者との区分けがはっきりしているので、そういうのも楽である。だから私は朝などは多少時間がかかっても大通りを選択することが多いが、たまに学校のそばなども通りたくなる。運が良いと運動会の予行練習で朝から生徒が校庭に整列させられているのが見られるし、もっと運が良いと習字道具を忘れた生徒に、母親が軽自動車で門まで届ける姿を見ることができる。私はそういう光景を見ると和んだ。私は今は子供に届けるほうの立場で、実際週はじめに給食着体育着一式を忘れて届けたことがあるが、私の住む自治体ではそういうときは事務室にクラス番号名前を添えて預けるように、との決まりがあるので門に呼びつけたり、教室まで届けるなんてことはできない。門に呼びつけるのは子供のほうだった。私が子供の頃は忘れ物なんてしたら地獄だから、ランドセルの小ポケットに小銭を入れて、忘れ物をしたら職員室の前から電話をしたと記憶する。中学だったかしら。しかし門のそばの物陰で、息をひそめて母が来るのを待っていた記憶がある。あれは中学の門ではなかった。母は煙草吸いで、出かけるときは必ず台所の換気扇の下で一服するから、いつも出足がのろかった。今だいたいこの辺か、とその人になったつもりで頭の中で道をたどったりしたが、それが当たることは一度もなかった。今は先生も生徒も優しいから、忘れ物をしたって、平気なのかもしれない。今の子供は私の子供の頃よりも子供だ、とか考えたが、私の親やその親もたぶん同じように考えて、未来に目を向けると人はどんどんミニチュア化していく。少子化とはそういうことなのかもしれない。

時間差でお昼を取りに来た人が事務所の電子レンジで麺だかを温めていて、それが給食のような香りがした。私は給食の匂いをかぐと、途端に心細くなった。私は就学時、父が、母が、というより家から遠く離れるとよく心細くなった。学校に行く自分というのは嘘子の自分のような気がし、夏休みや冬休みは休みというより本業という感覚だった。小学校高学年や中学になるとテレビゲームに夢中になって、すると心細いとはあまり思わなくなった。