意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

この次も同じ人生

おとといかその前に保坂和志「小説、世界の奏でる音楽」を読み終わり、それは比較的楽しい読書であったが、私の弱点というか、欠点はついつい最後のページ番号を確認して、残りのページ数をかぞえたりして、あとどのくらいで読み終わるかとか、計算してしまうのである。今回は、厳密には小説ではないし、読む前に急いで読まないようにしようとか決めていたから、途中まではあとどれくらいとか考えずに読めたが、最後の方になると、やっぱり気になってしまい、気になると、途端に急いで読んでしまいたくなる。本というものは物理的な物質であるから、今自分がどこまで読んだか、あとどれくらいかが一目でわかってしまうのは、本というものの、やはり欠点ではないか。その点電子書籍なら、見えるのは今読んでいるページのみ、複数ページを見る方法などもあるのかもしれないが、ページの厚みなどは見られないだろうから、最後が何ページなのか隠すことも容易だろう。これは紙の本に比べれば長所だが、電子書籍はそのことに気づかないのか、ご丁寧に「今何%」みたいな数字を出し、しかも大体この地点、みたいな小学校の算数の文章問題みたいな線分を表示し、自分の残りページを直感的にわかるようにしてくれる。しかしそんなものは読書をつまらなくさせるだ。

それで、残り30ページくらいで一気に読んでしまいたい衝動にかられたが、なんだか最後の方に難しくなってしまい、その原因はニーチェとか出てきたせいだ。いきなり1行もわからなくなって、あれれ、こんなに難しい本を読んでいたっけ? と思い、比較的すいすい読めたのは小島信夫とのやりとりなどだったが、もう小島信夫は死んでしまった。でも全体としてこの本は難しく、しかし全く歯が立たない難しさではなく、どうにか手が届く、あるいは手が届いたような気になる内容だった。「小説は読んでいるその時にしか存在しない」と著者は何度も主張しているから、私はここではもうその内容には触れることができない。ただ感触が残るのみで、それが、「最後の方、難しかったなあ」である。

ところでニーチェのところで唯一わかったのが、私たちの人生は、終わったらまた寸分違わず同じことを繰り返すという考えだ。これを永劫回帰と言うらしい。おそらく、人生に限らずあるゆるものがそういうことになるらしいが、例えば来世という考え方は子供の頃から知っていて知り過ぎているくらいで、私がTwitterを熱心にしていたころはよく、
「来世でがんばる」
というつぶやきを目にした。よく、というのはそういうことをつぶやく人が複数いた、というよりもある特定の人がそういうことをよくつぶやいた、という意味かもしれない。しかしああやって同じように縦に並ぶと、もちろんアイコンやIDがあるからそのときは、ああこれを言っているのはあの人、とか判別できるが、画面から離れて少しするともうわからなくなってしまう。それはこのブログにしてもそうで、読者登録させてもらっているブログが縦に並んでいると、誰が誰なのかもうよくわからなくなってしまう。そして、その全員が、顔見知りでもなんでもないのである。

話を戻すが、この永劫回帰が真だとしたら、来世派の人は涙目である。来世でいくら頑張ろうと決心しても、今世以上にはなれないのである。だから来世のために今世を頑張るというふうになって、私なんかも少し前向きな気持ちになったりもしたが、だが、今世がめちゃくちゃな人はどうなるのか? 例えば自分の子供を失った人は、私も2人子供がいるがそれの1人か複数が突然死んでしまったら、それを来世でも繰り返しますとなったら、私は辛くて仕方ない。しかし実際は失ったことはないから、それほど辛くないかもしれない。私は無責任なことは言いたくない。でもやはり辛いだろう。ニーチェにしろ、保坂和志も、その辛さがわかっていないんじゃないかと思う。ニーチェは女に振られて頭がおかしくなって死んでしまったし、保坂和志はまだ生きているが、エッセイなど読む限りでは子供はいないようだ。大変な猫好きでそのうちの一匹を喪って大変悲しかったが、それもまた意味あること、みたいなことを言っていて、またそれを繰り返すことを受け入れるようなことを書いていた。対して私は猫を始め動物類は飼ったことがなく、唯一飼ったのは金魚とか小さい川魚で、私が小学のころ、私の家族は生き物なんて誰も興味がなくてみんな引き出しの上の水槽を放置していたら、あるとき片付けをしたらペン立ての脇に煮干しが落ちてて、どうしてこんなところに煮干しが? と思ったら、それは水から跳ねた魚が運悪く水槽から飛び出てしまい、誰にも発見されずにそのまま干物になってしまったのだ。魚は来世でも干物になる。

だから、私は保坂和志は猫だから悲しみに耐えられるけど、人間の子供ならそうはいかないぜと私は思ったりもしたが、私の方だって猫を飼ったことがないからおあいこだ。

それから生まれて数週間で死んでしまう子供だとか、そういうのはどうなのか? 数週間どころか数分間、数秒、あるいはマイナスの命だってある。そういうのが来世も全く同じことを繰り返すなんて、まったく希望がない。死は完全な無であるというほうが、まだ希望がありそうだ。

しかし私のこういう感覚が、例えば自然とか世界、あるいは全体からしたらズレていることはなんとなく感じている部分はあり、感じるというか、私が歪だと感じるものは全体からしたら実はそうではなく、その逆もまたしかりでなければおかしいと私は思う。