意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

私の二十代

私は前回の記事であまり本を読まないと書いたが、これはよくあるテスト前に「全然勉強してねーよー」というニュアンスのやつとは違う。しかし謙遜というのは、一種のコミュニケーションなんだろう。私は、今でもそうだが褒められればやはり「そんなことない」と言ってしまうだろう。今朝も
「飯村の朝礼の話は面白いなあ」
と言われて「そんなことないですよ」と答えてみたが、心の中では「面白く喋ってんだから面白いのは当然だ」と思っている。もっと細かく言えばこれは相対的な面白さであり、要するに周りの話がつまらなすぎるのである。天気と交通の話しかしない。天気なんて朝テレビを観てれば勝手にわかるし、車の運転を気をつけるなんて、話に出すまでもない。言われて改めて気を引き締めた、とかいう考えもあるかもしれないが、朝礼のせいでスケジュールがタイトになって、客先に急いでいったら事故った、という可能性のほうがずっと高い。私のこういう考えは偏っているかもしれないが、ある種の偏りがなければ、話なんか面白くなりっこない。あるいは、偏りに対する自覚が。

もちろん私が本を読まないと言うのは、謙遜ではなく、主観だ。読んだ気がしない、という話だから、私がここで自分の読書遍歴を披露したら、人によってはたくさん読んでると思うだろう。でも、私のよく読むブログの人たちは、私よりも読んでる気がする。気がする。

今日それで、別の人のブログを読んでいたら「読書をしてないということは、何か別のことをしている」という文面があって、そういう趣旨の文ではなかったが、確かに私は別の何かをしていた。こういう話をすると、「私はなにもしてこなかった、何もなかった」と言う人がいるが、そういう人には小説を書くことをオススメする。小説を完成させるために、自分の過去や経験を引っ張り出してくると、自分の今までに、何もなかったわけでないことに気付かされる。これは私自身もそう感じたし、その当時一緒に小説を書いていた人も同じことを言っていた。まあブログでもなんでもいいのだが、フィクション、と決めてかかるほうが気楽に自分と向き合えるのかもしれない。

私が本格的に本を読まなかったのは二十代で、だから二十代は別のことに熱中していたわけだが、それは前半は音楽で、後半は仕事だった。私は高校時代からドラムを始め、大学を卒業するころにレッスンを受けるようになった。プロになろうと思っていたから生活は音楽中心で、ライブも都内で月に1、2回やっていて、しかし全くお客もつかなかったし、手応えもなかった。だから「プロになる」というのは当時からもう言葉だけで中身は何もなかったし、今書いてみても文字でしかない。例えば私はその当時フリーターで、車で車庫証明取りに行ったりとかそういう仕事をしていたが、車を運転しながらも、左手でスティックを振り続け、そういう話をすると「頑張ってたんだね」と思う人もいるかもしれないが、今思い返しても、あまりがんばった感じがしない。むしろ運転中にそんなことして危ないなあとか思う。努力というのは、結果に見合った量しかできないのかもしれない。

仕事については、また気が向いたら書きます。

寒い。