意味をあたえる

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読書瞬間2

それで、私は最近あまり本を読んでないなーと思ったら無性に読みたくなり、私は朝はネモちゃんを通学路の途中まで送っていくのだが、帰ると私が出勤時間まで30分くらいあり、最近私はそれを「ゴールデンタイム」と呼ぶ。ゴールデンタイムはいつ他の家族に壊されるかわからない、私1人のための時間であり、私はそっと気配を消しながら二階へ行きヒーターを全開で焚くのだが、熱風が出るまでに時間がかかるため、スイッチを入れると私は一度下に降りて歯を磨く。私は何気にこういった風に手順が洗練されていくのが好きで、朝起きたときも最近では、ネモちゃんのパンを焼く前に私のマグカップをお湯を入れ、少しでも温かいコーンスープを飲めるように努めている。

それで歯磨きの最中に妻に話しかけられることなく無事に二階へ戻ることができた私は、カフカ短編集を手に取り、読んだ。もうほとんど読み終わっていて、あとは最後の「万里の長城」のみというところで、読んでいたらすごく面白かった。どう面白いのかは説明できないが、確か万里の長城バベルの塔の基礎になりうるみたいな箇所で、読んでいて心地よかった。面白いと言うより、心地よい。やがて出勤時間になったので、私は本を閉じた。  

そして今日になって残りをぜんぶ読み切ったのだが、もう昨日ほどは面白くなかった。理由はよくわからないが、話があまり頭に入らなかった。それは、本の最後の方だったからではないか、と理由がよくわからないと宣言しながら、その自分を裏切って理由を述べてみる。

そもそも私は小説のクライマックスが苦手で、残りの紙が薄くなってくると、ついつい残りページ数を数えてしまい、どんなラストなのか気になって話に集中出来なくなってしまう。それでも長編はまだいいが、短編となると話が区切られているから、最後の話になると、「さあ、これを読んだらこの本は終わりだ」みたいな意識が働いて、ノルマのようになってしまう。こういう読書になってしまうのは、ログを取っているせいなのかもしれない。だいたい「一年に○冊読みました。去年より△冊多い」とかいうのが即座にわかってしまうのは、読書という行為を難しくしてしまうのではないか。

だから、短編集というのは、最後の話から読むのが正解だと思ったら、学生時代、数学のテストは必ず最後から解いていたことを思い出した。

カフカ短編集については真ん中あたりに収録されていた、「独身者のブルームフェルト(正式タイトル違う)」という話が面白かった。これは途中までは謎の二つのスーパーボールみたいなのに追っかけられるおっさんの話だが、途中からスーパーボールは全く出てこなくなり、代わりにおっさんの仕事場の話になり、二人の助手が全く仕事が出来なくて、掃除夫の箒をふんだくろうとするがうまくいかないという話なのだが、今書きながら思ったが、二つのスーパーボールが二人の助手に変化したのか、とも取れる。私はとにかくこの二人の助手のいかにダメかのくだりになった時に、このままスーパーボールに戻らずに話が終わればいいなと思っていたら、戻らず終わったから愉快だった。ちなみにこの二人の助手については、「城」の助手を私は連想し、あれも確か二人組だった。私は「城」でも今回のでも、二人組、と出たとたんに、マリオとルイージを連想してしまい、それはスーパーマリオが実写化され、変な外人が演じていた影響もあると思う。