「らしい、気がする、ばっかりで話の芯がつかみにくい」
上記のように鍵括弧で囲まれていると、誰かのセリフのように読み手は受けとるわけだが、実はこれはセリフではなく、この前段落等で、「○○らしい」という言い回しが小学生の作文のように連続で出てくるから、作者が書きながら思ったことを、鍵括弧で囲ったのだ。なぜ「らしい」ばかりかと言うと、夢の話と現実の話がごっちゃになっていて、それを相手に
「夢だっけ?」
とか確認するのだが、それも夢の中だったりするから、わけがわからないのだ。山下澄人の別の小説だと、主人公が三人出てきて、視点がかわりばんこになるのだが、全員一人称が
「私」
だから、誰の話なのか途中で混乱する。しかも赤ちゃんとかを「その人」とか書いたりするから尚混乱する。私は読み始めた頃は、割と神経質にこの段落は、Aさん、みたいな確認作業を読み終わってからしたが、やがてやらなくなった。たぶん書いている方も
「これ誰だっけー」
と思いながら書いているに違いない。
それで「らしいばっかで芯がない」という作者の感想は、そのままだとおさまりがつかないから、次の行では長谷川という男が言ったことになっている。私が思うに、しかし「らしいばっか」と書いた瞬間は、誰のセリフでもなく、書いてから
「誰のセリフにすっかー」
と決めたに違いない。考えながら書かれた話というのは、読者にもそういう思考の痕跡を感じさせ、時には同じように考えることを強要するが、書きながら考えられた話なら、読む方もだいぶ気楽だ。読書は気楽でもいいのだ。
似た話で保坂和志がカフカの「城」の中で、Kが酒場で電話をかけるシーンがあるが、Kがまさに電話をかけようとする瞬間まで、部屋の中には電話はなかった、と言っていて、なかった、というのはカフカは電話があると考えていなかったという意味で、そういうことができるのが小説の強み、と言っていた。映画なら、セット、というものが最初に組まれるから電話をかけようと思って初めて電話が登場するというのは、不自然きわまりないからである。
※引用は中央公論新社「アンデル」創刊号より。
※誌名「アンデル」は&L、でLはランゲージ、と書きましたが、正しくは「○○&Literature(○○と文学)」です。