意味をあたえる

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難易度の高い読書

昨日は喫茶店に行き、そこで小島信夫「菅野満子の手紙」を読み、面白かったところをブログに書き出そうと思った。ここのところ、書き出すことが少ない理由は、「菅野満子の手紙」が図書館で借りた本で、付箋を貼れないからだ。

先日来たときは店内が寒かったので、昨日はコートを脱がずにコーヒーをすすった。そうしてページをめくり出すと、めくるページめくるページが、どれも面白い。今は全体の五分の四まで読み終わったところだ。五百ページと少しの本なので、四百ページまで読み終わった。三百ページくらいから、手で押さえなくても、広げて置いて読めるようになった。辞書のようである。集英社である。しかしもう少し読んだら、また押さえなくてはならなくたるだろう。本は読み始めに戻っていく。

めくるページめくるページが面白い、という表現はおかしいだろうか。しかし、それはストーリーが面白い、というのとは違うので、継続した面白さではない。ページをめくる度に、独立した、全く新たな面白さが発生する、ということだ。ストーリーではなく、と言うと、途端に説明が難しくなり、より所がなくなるのが小説だ。もうそれは昨日の話だ。今はベッドの中で書いているので、本も手元にない。「めくるページめくるページが面白い」というのは、どんな感じだったか。

一方、大変集中力の要する読書だった。ひとつあけて左の席の、女2人がおしゃべりに夢中になっていたからだ。耳障りではあるが、特段うるさいわけではなかった。しかし、途中からどうしても読み続けられなくなり、携帯を見たりした。どうして阻害されるのか、注意して会話を聞いてみると、ひとりが敬語でしゃべっていることに気付いた。つまりこの2人の間には、上下関係が存在するのである。かなりフランクな会話を繰り広げているが、下の者(私の向かい側に座っている)は敬語をくずさない。上の者は眼鏡をかけている。二人とも太っている。

私はこの2人の会話が、「めくるページめくるページの面白さ」の原因ではないか、と考えた。私は何日か前の記事で、全く同じものを読んでも、面白いときとそうでないときがある、と書いた。その理由について、あまりにも簡単に「そのときの心理状況が」と説明したりする。しかし、そうだとしたら、物事の面白さは本ではなく、自分である、ということになってしまう。小島信夫の面白さとは、太った上下関係を維持した女性二人組の面白さと、入れ替え可能なのではないか。

だから、私は二人組の会話に、より注意して耳を傾けたが、大して面白い話ではなかった。下っ端のほうが、どうやら仕事を探しているらしい。仕事、といってもパートとか、そういうのだ。
「マックのそばのセブンイレブンとかどうでしょう」
「あそこは夫がよく行くよ」
下っ端は、どこか、知っている人が来ないところで働きたいが、眼鏡はその夢を打ち砕く。しかし、知り合いの配偶者が来るくらい構うことではないように私は思う。イマイチこの2人の関係が見えてこない。

太っちょの眼鏡、で思い出したが、私の会社に出入りしている業者の担当者が二人いて、二人とも眼鏡をかけ、ひとりは太っている。それであるとき私が上司に
「今日どっちが来ました?」
ときくと
「眼鏡のほう」
と答えた。(どっちも眼鏡だろ)と心の中で突っ込みながら、それでもどちらだかわかってしまうから不思議だ。