意味をあたえる

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映画を早回しで見るのは単に退屈なだけ

「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来(稲田 豊史) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

保坂和志が著書の中でどんなに途中で面白い小説でも残り1ページで退屈になったらそこで読むのをやめると言っていて、それはつまんなにのに無理して読むのは作者に対して失礼だという意味で確かにそうだと思った。私もさすがに残り1ページくらいなら惰性で読んでしまいそうだけど、無理して読み進めるくらいなら、そこで意識して止めてしまうようになった。私は映画はほとんど見ないからマンガや小説だが、マンガは鬼滅の刃なんかは面白いところもあったけど、いちいちリーグ戦みたいに、登場人物が過去のエピソードを持ち寄るのにはちょっとつき合いきれなくて読み飛ばした。ストーリーがわからなければ少し戻って読めばなんとなくわかるのである。もっと言えばストーリーがわからなくても読んでしまえるのが漫画なのである。絵に引っ張られてページをめくり、気づいたら最後まで来てしまうのである。誰が死ぬとかラストはどうかとかだけつかんで、二回目に臨むのが私の漫画の読み方である。


引用元で、飛ばし見をして伏線を見落としたらどうするのかみたいなことが書いてあったが、どうして2回目、3回目に見ることを想定しないのか不思議である。私はどちらかと言えば伏線についても飽きてきた感があり、伏線は見つけた人が利口な人と勘違いさせてしまう装置である。昔ジーザスクライストスーパースターを見たときに、香油を塗ってもらうイエスにユダが「香油買う金があるなら貧しい人に施せよ」とさんざん文句言ったらいざ裏切ったときにアンナスに金貨をもらって返そうとしたら「受け取るの嫌なら貧しい人に施しておやり」と言われて、ぐぬぬ、てなって何がぐぬぬなのかと言うと受け取ったらイエスを金で売ったことになるけど、過去の「施せ」と言った自分と統合性がとれなくなるから、受け取らざるを得なかった。それが私はすごく愉快で、友達に「皮肉だよな」と持ちかけたら「まったくだ」と返されて、私はこの皮肉に気づくのは私くらいだと思っていたからものすごくびっくりして、同時に恥ずかしくなった。以来伏線が苦手なのである。