意味をあたえる

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私が幸福だったとき

昨日のズイショ氏(ズイショさん)の記事を読んだ私は、自分の中学以降について書く必要がある、と感じた。しかし今日になって、(チェコ好き)さんの記事を読ませてもらったら、
(やっぱり小学校のときのことを書きたいなあ)
と思った。理由は、小学校のときがいちばん幸福だったからである。もっと言えば、小学校六年の卒業式をむかえる前の3日間ほどである。小学校四年のときはいじめられていたから、幸福ではなかった。幸福ではない私を、あるとき仕事の泊まり明けで帰ってきた父が、車からこっそり覗いていた。私は学校帰りで、クラスメートにランドセルを小突かれたり、桑の枝でひっぱたかれたりしていた。私は、いじめられている私を、父が見守っていたなんて、夢にも思わなかった。2、3年前に母が教えてくれた。私はかなりの衝撃を受けた。父は仕事人間で、私のことにそれほど関心はないと思い込んでいたからである。父は身長が150センチと少ししかなく、私は小学校四年のときには、もうその背に追いついていた。五年になると余裕で追い抜いた。だから私たちは、同じ目線に立っていじめた奴らを見ていたのである。

私はなにが言いたいのだろうか?

とにかく私が小学校のころが幸福だったと表明すると、それはある種のカッコつけのように見えてしまうかもしれないが、これはただの物事の捉え方の話である。私は「自分が今幸福である」と宣言することは、ひょっとしたら、自分が不幸であることの表明になってしまうのではないか、と思うのである。私は2、3年前から、幸せよりも不幸なほうがたくさん物を考えられるから、良い、と思うようになった。しかしこういうのを、逆説的と言うのだろうか? 不幸が良いなら、例えば私の子供が無残な死に方をしても、同じことを言えるのか? と私は自問する。やはりそれは無理だ。しかし、どんなに悲しんだところで、いつかはそれを乗り越えてしまう。

ところで、(チェコ好き)さんは、なぜ括弧にくるまれているのだろう? と私は不思議に思うが、私はまだ()チェコ好きさんを知って間もないので、そのゆえんを知らない。おそらく(チェコ好き)さんの中では確固とした理由があり、それをブログ内でも最低一度は説明しているだろう。(チェコ好き)さんの文章は、そういうことを感じさせる文章だ。

ところで、(チェコ好き)さんの名前を見ていたら、ふと、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を思い出した。薔薇の名前の原題は、「ザ・ネームオブザ・ローズ」と言う。私は英文法に詳しくないのでちゃんと説明できないが、普通はローズのほうには「ザ」は付かないらしい。ウンベルト・エーコ記号論の研究者でもあるから、この「ザ」にも特別な意味があるらしい、というのをどこかで読んだが私は忘れた。チェコ好きさんの括弧は、冠詞のようなものなのだろうか。

ところで、村上春樹の「スプートニクの恋人」の中で、垢抜けていない女が、主人公に「象徴と記号の違いはなに?」と電話で質問する場面があり、主人公は象徴は一方通行、記号は両方向、と説明していた。例として天皇を挙げ、天皇は日本国民の象徴であるが、日本国民は天皇の象徴ではない、と説明している。


20150305 - ←ズイショ→


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