意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

圧倒的なひらめき

私の中で定期的に「微分積分熱」というのがあるが、だいたい大して理解できずに終わる。そもそも最初に読んだ本が「誰でもわかる~」的なタイトルのくせに、「y'」と「dy/dx」の記号の違いについて、
「なんでもいいんですよ」
みたいな雑な解説がしてあって、そうすると私は
「なんでもいいのなら、何故統一しないのか?」
と気になってしまい、そっから先へ進めなくなった。

私は冒頭に「定期的に」と書いたが、それ以来微分積分に触れてこなかった気もする。

今読んでいるのは、「ワナにはまらない微分積分(大上丈彦著 森皆ねじ子絵 技術評論社)」というのであるが、これは割と親切だ。前述の「y'」と「dy/dx」の違いについても、前者がラグランジュの考えた記号で、後者がライプニッツの考えた記号で中身は一緒、華道の「○○流」みたいなものである、と丁寧に説明されていた。「華道の......」の部分は今私が勝手に付け加えた比喩である。

そういう入り口の入り口の部分を丁寧に行う、というのは、実のところ至難のわざではないか。私はこの本を終わりの方まで読み進めることができ、そうすると以前よりも格段に理解が進み、初学者に対して、うっかり
「記号なんて別になんだっていいんだよ」
と言いそうになる。ライプニッツだのラグランジュだの、そんなの鬱陶しいだけだし、なにより
「なんだっていい」
と言えちゃう自分が格好良くて自慢したくなる。

ただそういうのがトータルで見ればマイナスであるのは私にも理解できるので、私はせめて、
「私が理解した分野について、初学者の気持ちになることは至難の業である」
ということを、心に刻み込もうと思う。ライプニッツラグランジュの名前も忘れずにいようと思う。

私が定期的に数学に興味を持つ理由は、他人と違う視点を手に入れたい、という下心ももちろんあるが、私自身が数学が得意だ、という思い込みによるものである。私は実際算数はものすごくできた。時速60km/hでトンネルに入った10両編成の列車の最後の車両が、日の目を見るのは何秒後か、みたいな問題は、今でも好きで、方程式も組み立てずに解く。方程式にしてしまうと、XとYがブラックボックスになって、手が届かなくなるからだ。私は式という式を自分の手許に置かないと気が済まないのだ。だから、本当のところ私は数学向きではないのかもしれないが、昨日も三角関数微分の証明を読んでいて、自分なりに式の意味が理解できたら心が弾んだ。

「自分なりに」というのが肝で、自分なりというのは、自分専用の比喩をつくることで、何段落か前で私は「華道の○○流」とか書いたが、そういうことである。
「華道の流派は、実際に中身がちがうから、比喩としての精度は低い」
と意地悪な人には言われそうだが、自分の中で腑に落ちれば、それが正解なのである。ちなみに「華道」は、比喩のための比喩なので、私の中でも精度は低い。

私が今でもおぼえているのは、中学の時の重量と質量の違いのところで、月の上にいくと、重量は1/6だが、質量は変わらない、というのが、どうしても理解できなかった。私はそのとき進研ゼミをやっていて、テキストを見たら、ライオンだか犬のキャラクターが、
「月の上でおにぎり食べても、満腹感は一緒!」
と、ご丁寧に、透明色になった胃袋の中の海苔を巻いたオニギリのイラストまで付けてあった。こいつらは、オニギリを咀嚼せずに食うのだろうか!

オニギリを見ても私は全然理解できずに頭を抱えたが、ふと、
「質量は天秤にて計る」
という部分に注目したら、天秤は一方に必ず重りを置く。重りも1/6になるが、重りに刻まれた重さの表示は100gなら100gのままだから質量とはそういうこと、という風に解釈できた。こんなにも頭の中が晴れ晴れしたのは、人生でもそうそうないことで、あれから20年だった今でもはっきりと覚えている。