一昨日の私のブログの記事で、あやこという女が登場した。看護師である高畑淳子は、彼女がカマトトであることを早い段階で見抜いていたが、私はそうではなかった。話の中で、あやこは主人公である白戸沢を下の名前で呼んだり、冗談で、
「探偵でもやりますか」
と言う白戸沢に対し、すかさず自分を助手にしてくれと頼んだりする。そういう女の行為は、書いている私も気持ちがいいから、ついついさせてしまうのである。
白戸沢は医者であるから、あやこは普段は「先生」と呼んでいるが、事件の最中に医者を辞しているので、
「わたしはもう先生ではありませんよ」
と言う。しかしそうは言ったって、今まで「先生」と呼んでいたのを急に変えてしまうのは変だ。私たちは先生の職や資格を持っている人を「先生」と呼ぶのではなく、先生、という語感が染み込んだ人をそう呼ぶのである。しかしあやこは、言い淀むこともなく、すかさず白戸沢を下の名前で呼ぶ。書いているわけではなく私も、
「ゆるいフィクションだからいいやー」
と気を抜いたのである。そこが引っかかった。
何年か前の太宰治賞の中で、審査員である三浦しをんの選評の中で、
「わたしが●●なら、そんなカマトト女はやめておけ、とアドバイスする」というのがあって、私は腹を抱えて笑ったことを思い出した。●●、というのはその話の中に出てくる、主人公のもうひとつの自我的なキャラクターで、主人公の心の中で話し相手になったり、アドバイスをしたりするのである。実体はない。カマトト女、というのは三浦しをんが勝手にそう呼んだだけで、話の中でカマトト女が出てきたわけではないが、しかし、その女はカマトトなのである。主人公の恋の相手、ではなかったかもしれないが、視界にちろちろ入ってきて、
「○○しましょうね」
「△△できたらいいですよね」
みたいなしゃべり方をする。正確ではない。しかし、そういうのが私のあやこと重なってしまい、あやこもカマトトであることにやがて私は気づいた。
そうなると白戸沢とあやこの会話に割り込んでくる高畑淳子は、もう最初からこの女の正体を見抜いているのである。私の中で、高畑淳子に三浦しをんが乗り移り、
「そんなカマトト女はやめておけ」
と心の中でアドバイスしている姿が思い浮かぶ。深みにハマると痛い目を見るぞ。しかし、男女の関係はやめろと言われるほど燃え上がるから、高畑淳子もそれを承知し、
「病院に戻りましょう」
と回りくどい言い方をするのである。「病院」とは、失恋のメタファーである。
ところで、小説の新人賞は、最終選考の選評が雑誌に載るが、小説自体は受賞作しか載らない。審査員はそんなことおかまいなしに、最終選考に残ったすべての小説についてボロクソ言うので、受賞に至らなかった小説が、どんなものなのか気になって仕方がない。しかし太宰治賞だけは例外で、最終選考の小説すべてを掲載する。というか、賞のための雑誌なので、それ以外に載せるものがなく、受賞作だけでは、薄っぺらくなってしまうのである。他の雑誌は、あくまで先に雑誌があってそこが主催する賞なので、新人賞以外にも新人でない小説や対談がたくさん載っている。
※小説「余生」第24話を公開しました。
余生(24) - 意味を喪う