意味をあたえる

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結果ありきで頑張るのは苦しいだけ

こちらのブログを読ませてもらって、それからTwitterなどでずいぶんと、この記事が目に付くので、私も考えたこともあったので、そのことを書かせてもらいます。尚、私は以前も同じようなテーマで書いたことがあるので、話がかぶることもあるかもしれないので、ご容赦ください。

私は、「頑張りは頑張り、結果は結果」と分けて考えるべきだと思っているので、とくに報われないからといってそれがおかしいだとか、苦しいだとかは思わない。苦しいと思うのは、誰かのためだとか何かのためだとか考えるからであり、最初から自分のため、と決めてかかれば、徒労に終わっても、早めに割り切ることができる。最初からあきらめてかかるのも手だ。逆に言えば、なんらかの苦痛を、結果を期待して背負い込むのは、例え結果がともなっても、そのストレスで自分の体や精神をこわし、寿命を縮めるだけである。結果や見返りを期待して行うのは投資であり、株式の投資などのアドバイスでは、必ず「余裕資金でやりましょう」と言っている。つまりそういうことである。

頑張る行為というのは、ほぼ自己満足であり自己完結であると捉えるべきである。

私が上記の記事を読んでいて気になったのは、「報われる=お金」のように考えている点だ。記事の中では、社員の人が、「よくやってくれている」と褒めてくれたと書いているので、その時点でじゅうぶん報われている。じゅうぶんかどうかの判断は、その人の価値観だから、わからないが、私も前の前の前くらいの職場の先輩が、
「上司に呼ばれてよぉ、「よくやった」てほめてくれるんだけどよぉ、ほめるんだったら、給料上げろってんだよな」
と言っていた。小さい「ぉ」が語尾についているのは、そういうしゃべり方だからである。その先輩は以前は信用金庫に勤めていて、頼まれてもいないのに朝早く出勤して、毎朝トイレ掃除をしていたそうだ。女子トイレも、である。彼は男だったが、掃除という名目でトイレに立ち入ることも許された。今なら盗撮で告訴されるところだ。女子たちには煙たがられていたのかもしれない。

それで給料の話を聞いたときに私は、
「そういうことなのかー」
と思った。つまり、上司や経営者は、お金さえかからなければ、すごくこちらをほめてくれるのである。そうすると逆に給料を上げるときというのは、苦々しい顔をするのかもしれない。

だから、頑張るとか報われるとか、そういうのを取っ払ってしまえば、これは「より資本投下に対しての見返りである賃金を高めるためにはどうするか」という話なので、素直にビジネス書やそういうサイトを見たほうが良さそうだ。「報われる」という言葉で遠回りする必要はなく、金一点に意識を集中すべきだ。そういう点で、仕事の手を抜く、というのは賃金がそのままであれば、自分の仕事に対するリソースを減らすことができるので、実質賃金は上昇し、昇級したのと同じことになる。その上まわりからはほめられるので、一挙両得である。というか、ずっと同じ仕事を同じ給料でこなしていけば、仕事の難易度は下がるから、給料は上がっているのと同じことに気づいた。そういうことを、経営者が知ってしまったら大変だ。同じ仕事を続けるといのは、お得なのかもしれない。

話は戻るが、各人が今いる状況について、「過去の頑張りの結果」とか、「マイナス方向の頑張りの結果」とかいうふうにとらえがちだが、冷静に見て、本当にそうだという人はほんの一握りにすぎず、私個人の人生を振り返っても、「どうしてこうなった」というばかりで、それは他人との関わりとかそういうのも大きいし、人生で起こることなんて、ほとんど自分は介入できない。誰と知り合うかも選べない。それなのに、自分でどうにかしよう、という人が多すぎる。そういう人が、なるべく苦しまないように、「努力と結果に因果があるのは、ほとんど例外的」ということに早く気づくために、努力が報われてほしくない。


※小説「余生」第46話を公開しました。
余生(46) - 意味を喪う