それでそのあとやっと目当ての「てぶくろ・ろくぶて展」を見ることができ、先に私は「立体の方が面白い」と宣言したとおり、二つか三つの手袋を焼きごてでくっつけたようなオブジェの周りを、犬みたいに執拗に何周も何周もした。それは例えばある角度から見た人差し指が、別の角度からだと小指になりますよね、とか、そういうのをすべて征服したい気持ちにかられた結果であった。私はそういう作業に没頭した。
奥に進むと、私の予想外に若林奮の作品もあり、私は驚いたが、このブログでも若林奮は何度か取り上げたことがあり、理由はその文章の素晴らしさを取り上げずにはいられないからであった。しかしそもそも若林奮は彫刻家であるから、彫刻を見なければ意味はない。いや、なくはない。しかし、そのうち私は若林奮の彫刻を目にするときがくるだろうと予想していたから、さして驚きはしなかった。スケッチのようなものが数枚壁に貼られ、解説には
「手が物体に触れるさいに起こる振動が」
みたいなことが書かれていたが、かろうじてわかるのは手の絵くらいである。全部で五枚くらい貼ってあったが、手が書いてあるのはそのうち二枚くらいで、あとはお手上げだった。そこから少し離れた位置に、今度は立体があり、それは二枚の壁のような、船のような、角のような、とにかく「立体」としか形容のしようがない物が置かれていた。かろうじて判別できるのは、二本ある突起のうちの一本の先についている階段くらいであった。階段でもないかもしれない。角度を変えてみると鋸の歯のようにも見えた。全体は古木のような色合いをしている。材質はブロンズだったか。忘れた。これも一種の振動を表したものだろうか。壁のスケッチとの関わりもあるのかないのかわからない。
わからないの塊である。何かを感じるのかと言われれば感じない。もちろん感じたふりは可能だが。それは何物でもない形であり、私が考えたのは、立体には不規則な突起がいくつか出ているが、例えば搬入した人が途中でそれを折ってしまい、もしそれを申告しなくても誰も気づかないのではないか、ということだった。誰も、の中には実作者も含まれる。もっとも、作者の若林奮はもうこの世にいないから、わかってもわからないのだが。
その考えを進めていくと、そもそもこれは完成したものなのか、という考えに至った。作者が完成を宣言しない限り、抽象物は完成しない。だから未完成の可能性もある。完成未完成という発想を超えている可能性もある。そう考えると始まりもないのかもしれない。生きていて、石が転がっていて、たまたま削る道具を持っていただけの話かもしれない。
そのあと埼玉県立近代美術館に行ったら障害者のアート展みたいなのがやっていて、やはりそっちはつまらなかった。具体的なものはつまらない。本質的な芸術とは、始まりも終わりもない、足がかりもないものかもしれないと私は仮説立てた。埼玉の方の絵や立体は、例えば狂気であり緻密さがあり、そこにアイデンティティを乗っけたような、足場が透けてしまい、つまらなかった。鮮やかな色づかいのものが多く、どうしてもそこに技術を感じてしまう。あるいは欲望か。それは障害者だけではなく、健常者の芸術でも同じで、多くの芸術家が、テクニックを足がかりにしているように見えた。球体が紛れもない球体に見えて疲れた。最後にマグダラのマリアの象を見て、衣服のふわっとした感じが重々しい石で表現され、そういう矛盾にうんざりした。