意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

死ぬ勇気2

中学生が自ら電車に飛び込むという痛ましいニュースがやっており、それを見た妻が、
「電車に飛び込もうとする勇気ってすごい」
みたいなことを言い、私は
「それは勇気とは違う、あえて勇気と言うならマイナス方向の勇気であり、積極性とは真逆の行為である」
みたいなことを言いかけ、また頭の中では「このやりとりと考察を今日のブログの記事にすれば面白いのではないか」と思った。実際このようにナレーションのように頭の中で言葉が再生されるのではなく、翻訳すればそうなるような、神経の伝達、感情である。

ところがその途端、私の中の記憶力が
「その感情はすでに過去に通り抜けている」
との判定を出した。つまり、すでにマイナス方向の勇気について私は考えて、それを記事にしている。妻はつまり中学生の自殺のニュースを見て、以前と全く同じ言葉を発したから、私までつられて以前と同じ思考回路を動かしてしまった。パターンというやつである。私は自分の底の浅さを思い知った。動物や機械と同じように、同じ信号、刺激が送られてくれば、私は同じ反応をせざるを得ないのである。

それはたぶん「死ぬ勇気」というタイトルだった。

仕方がないので、なかばやけくそで、「死ぬ勇気」を「死」と「勇気」に分けて、どちらかについて書こうと思った。会社に到着するまでに、どちらにしても、それなりのものが書けそうな予感がした。私は毎朝6時には目を覚ますが、今朝はくたくただったので、二度寝をしてしまい、文章を書くことができなかった。夢を見た気もするが、あまりおぼえていない。昨日は1日外にいて太陽の光をたくさん浴び、草臥れてしまったのだ。アカマツの前の芝生で昼食をとったが、アカマツの幹は細く、また言うまでもないが松の葉は針のようなのでとても日陰として用をなさない。仕方がないので、松に背を向けてお弁当を食べた。ワカメご飯のオニギリだった。朝、私はご飯とワカメを混ぜた。プラスチックのボウルの中で、いくつかの米粒はぺちゃんこになってしまった。私は最初はこのワカメが増えるワカメちゃんの類かと思っていて、というかワカメというのは水を吸ったらいくらでも増えるくらいに思っていたから、ワカメの量に関しては慎重を期したが、そうしたらシキミに
「足りないよ」
と言われたので、足した。それと、ご飯をおむすびにすると圧縮されて最初の目論見よりもだいぶ小さくなるから、ご飯も足した。増やしたご飯に合わせてワカメも足した。

オニギリはリュックの中でへちゃむくれのような形になってしまい、リュックはシキミのリュックだから、悪いのはシキミだということになるが、シキミは早い段階でリュックを放棄してしまい、その後は私が背負ったから私の責任かもしれない。私の歩き方が独特だったのかもしれない。シキミはへちゃむくれを私に寄越し、
「形を整えろ」
と指示してきたので、私は綺麗な三角形にしてやると満足した。しかしその三角形も途中で放棄し、チップスターやポッキーに鞍替えした。私が残りを食べるとご飯の密度が高く、
「文字通りすし詰めだな!」
とひとり満足するのだった。

ところで私たちのシートのすぐそばで中年の夫婦が会話をしていて、会話は携帯電話で行われ、夫はそばにはいなかった。妻は夫に現在地を伝えようとして、
「ステージの右、ひたすら右、思い切り右」
とやたらと右、右、と強調しそんなに右に曲がったら、同じところをぐるぐる回るばかりで、ちっとも前に進めないように思った。少し前にどこかの国の政治家が
「360°違う」
みたいな発言をし、笑い物になったが、そういうのを思い出した。ちなみに「360°違う」は中学の頃に見た「ラスト・アクションヒーロー」というアーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画で、悪役がやはりそんなことを言って、結局そういう頭の悪さが仇になって部下に殺されてしまうのである。