意味をあたえる

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書くことがない系

最近、過去の記事について再び読まれているような形跡があり、その中に「書くことがなくなったらどうするか」みたいな記事があって、私は最初この記事かと思った。

書くことがない - 意味をあたえる

この記事は私がブログを始めてほんの少しの頃に書いたもので、そういう目で見るとまだまだ堂々としていないぶぶんもある。ブログとは友達付き合いみたいなもので、仲良くなるとだんだんとふてぶてしくなるのが友情である。だから長く続くブログとはたいてい
「この前のアレだけどさあ」
みたいな、身内にしか通じないようなしゃべり方をする。本人はそれですっかり得意なのである。

まあそれが良いか悪いかは別として。

【突然短歌コーナー♪】

題:田所あつし

オキアミが、田所あつしをたぶらかし潜水艦は夏を運ぶか

【短歌終わり】

私がなぜ、「書くことがなくなったら」について勘違いしたのかというと、実は私のブログルールとして、「書くことない、を使うのは一回きり」というのがあるからだ。書くことない、は一度なら変化球を投げているみたいで面白いが、多投すれば専門家からは「勝負を逃げている」というふうに言われてしまうし、あと、
「書くことないなら書くなよ」
と言われたらおしまいだからである。書くなと言われながら書けるほど、私の神経は太くはない。また、書きなよ、と言われても誰かの思惑にはまっているようで面白くないから、あまり楽しそうにも書けない。

私はこの、ブログというものを始めてから、当たり前のように「記事」なんて言葉を何度も使うが、これまでの人生で「記事」なんて言葉、一年に一度も使わなかったくらいだから気持ち悪い。子供のころから例えば学級新聞だとか、あと大人になってもたまに新聞の書き方講座みたいなのに参加させられるが、私はいつだって他人と違う風に書きたいから、記事というものが苦手だった。みんなで同じ物を見て、同じ風に書くなんて、私には正気の沙汰には見えなかった。例えば絵の好きな人なら、写生会なんて、まともな神経じゃやってられないのではないか。中学の頃、わざわざ日曜日に友達と絵の宿題をやるために土手まで自転車で行ったが、二人は絵なんてすぐに飽きて、石に文字を書き始めた。その頃の二人にはメガドライブの「シャイニング・フォース」というゲームが流行っていて、前作は「シャイニング・アンド・ザ・ダグネス」だったから、次回作も「シャイニング・なんとか」だろうと思い、友達は石に「シャイニング・ソルジャー」と書いた。私はなんと書いたか覚えていない。次回作は結局ぜんぜんシャイニングじゃなかった。数年後にシャイニング・フォース2が出た。