意味をあたえる

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人工透析と死刑制度は似ている

「じゃあ自分がなったらどうするの?」というふぶんで似ている。私は賛成でも反対でもその辺りは加味して主張すべきだと思う。私は死刑制度は基本廃止すべきだと考えているが、
「じゃああなたの子供がむごい殺され方をしたらどうするの」
と言われると、やはり死んでほしいと思うかもしれない。ただ、じっさいに死刑になって、これでトントンね、みたいな風になっても嫌だと思う。例えば犯人が子供が殺されたのと同じ方法で殺されたとして、気が済まないから親も殺してほしいと思ったときに、今度はこちらが異常者のように扱われても嫌だ。犯人にも幼い子供がいたら、やはり本人より子供が死ぬ方がバランスとしては良い気がするが、しかしこれに賛成してくれる人は少なそうだ。だいいち子供そのものは何かしらやらかしたわけではない。子供というだけで罪から逃れられる風潮もある。

私は死をもって償った、という考えが気に入らず、そこには償う側の押し付けがあるからだ。そもそも死ぬことを「楽になる」という表現があるから許される上に楽になるというのはズルい気がする。楽になるというのはあくまで表現であるが、自分の感覚からしても腑に落ちる。私はしょっちゅう自分の配偶者や子が死ぬところを想像したりするが、それよりも自分が死ぬ方がいかに楽か、といつも思う。家族以外でも職場で厄介ごとがあると、「死んだ方が楽だ」と思うことがある。楽だ、楽だ、と昔から言われ続けたせいもあるかもしれない。

五木寛之の「生きるヒント」の中でインドかどっかへ行った五木が空港で物乞いにたかられたとき、その中に子供がいたからお金をめぐんでやると、めぐまれた子供は礼も言わず、だっとかけて行ってしまう。てっきりお礼のひとつも言われると思った五木はむっとしたが、あとから礼を言うべきはめぐんだ自分の側で、むっとした自分はまだまだ修行が足りない、と書いていた。私がそれを読んだのは中学くらいで、以来私は成熟というのはそういう姿勢を指すのだと思っていたし、できるできないはともかくそれが世の中の共通認識だと思っていたら違った。例えば数年前にTwitterで「傷つけられるよりも、傷つけるほうがつらい」みたいなことを投稿したら、「んなわけないだろ」と返された。以来私は発言に気をつけようと思った。人工透析についていうと、財源が、みたいなことを言われると私には言い返すことはできないが、逆に財源以外は壁はないと思っている。私の理想は自分の不摂生で透析患者となった人が、当前のように治療費を国にもってもらうような世の中である。

私は以前は共済とかを扱う仕事をしていて、私の勤め先には病気や怪我になった人がひっきりなしに訪れ、そういう人に申請方法を教えたりするのが私の仕事だったが、反応はそれぞれだったが、ある種の人が
「かけておいて良かった。こういうことがないと、共済のありがたみがわからない」
みたいなことを言い、私はそれはすごくダサいな、と思っていた。