意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

数式をとくように

朝いろんなことを考えていて考えるとはここ数年の私からすると書くと同義になっていて書くために考えるなんてなんかイヤらしいと思ったが同時に(昼過ぎには忘れて結局なにも書けないだろう)みたいなことを考えあるいはそれは思考以前の例えば石に染み込んだ記憶みたいな地縛霊のような・結局ほとんと忘れた。覚えていることもいくらかあったがわざわざ書くことのほどのないようにかんじた。


私は書く際の取捨選択が激しくたとえばこれを書くのは恥ずかしいな・ということをよく思いしかし読んでいる人がいちばん読みたいのはそこのぶぶんではと同時に思う。世間には恥も外聞もないような書き方をする人もいるが彼ら彼女らもやはり何かを書くことをためらい隠し続けているのではないかと推測する。しかし私は感情にまかせて書かれた物はだいたいつまらないと思う。書くことはどこかにしたたかさがなければうまくいかない。昨日読んだ山下澄人「しんせかい」の【先生】も「脚本を書くのは因数分解だ」と言っていた。たんに風のにおいを感じたりセックスに明け暮れるだけではダメでときにはせっせと数式を解かなければいけないのである。数学でしたたかさが磨かれるわけではないが。


ところで「しんせかい」には最後に「これはぜんぶ嘘だ」みたいな記述がある。どうしてわざわざ嘘であることを強調せねばならないのか。私は昨日もこの小説の感想を書いていて「小説っぽくない」みたいなことを書いたがこれは無闇に人が死んだりセックスしたり幽霊がでたりとか未来や過去に詳しい人がいたりあと半殺しだとか不倫だとかがないからで事件やイベントがないからで平坦だから心の準備や構えがほとんどいらずそうなったのは心のどこかで「これは作者の実体験をベースにした話だから」というのが私の中にあったからだ。つまり私はこの本を読む前から内容が事実に即したものと知っていてしかしどこで知ったのかおぼえていない。雑誌のインタビューか何かで「うまく距離がとれないと書けないから慎重に書いた」みたいなことを言っていて私は「わかるわかる」みたいな風には思わないがそれでも私にもうまく書き続けられる日とそうでない日がある。書ける日はどこまでも書けそうだがそれでも今はもうミニマムなものしか書かないから本当にそんな気がするだけの話だ。それでも私はいつからか自分の体験でもアイディアでも何回書いても良いと思えるようになりこれは野球に例えると何回空振りしてもいいから振れみたいな具合でだからうまく書こうとか一発で決めようみたいな気持ちはあまりなくなった。私は同じことを何度も書いたがそれでも毎回違ったかんじというかもっと具体的にたとえば悲しかった記憶が楽しく上書きされたりするのは記憶に対する精度というか自分自身にたいする精度なのだろう。