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いつから親に

何でも漫画のせいにしたがる親へ「一般的な子供が漫画より見ている時間が長いものって何だか知ってます?」…その後の解答が刺さる - Togetter

上記の記事を読んで少し混乱した。混乱というか要するに私は批判する側で生地に臨んだがよくよく考えてみると批判される側であった。なぜなら私も人の親だからである。私の妻は「漫画も本(活字)も一緒でしょ?」というくらいの読解オンチなのでそれにならって子供たちも漫画すら読まない。この前下の子が珍しく漫画雑誌を読みふけっていたから珍しいと思って訊いたらそれは何ヶ月も前に買った雑誌だった。そのときはお掃除ロボの付録がついていてそれが欲しくて買ったのであった。お掃除ロボは強引な組み立てをしたら配線がいったん切れ仕方がないので私がコードのビニールをうまくはがしてつないであげたら元気よく動いた。障害物にぶつかったりテーブルから落ちそうになると回れ右をしてなかなか賢いロボであった。しかしうるさいので閉口した。それでもしばらくは主に相手のテレビ視聴の妨害のために活躍したが一歳の甥がくるようになったらどこかに隠されてしまった。雑誌なんてとっくに捨てたと思ったらまだあって子供が読んでいた。雑誌なら甥に破壊されることもないと思ったのだろう。その少女雑誌はタウンページくらいの厚さだった。昔私がコロコロコミックを読んでいたら祖母がその辞書のようなのはなんだと興味を抱いたことを思い出した。


私は親なのでむやみに子供に「漫画ばかり読むな」と叱れば批判される立場であった。批判はまだしも下手をしたら子供の人格や将来を破壊する可能性があった。だから漫画を読んでも「ほどほどにね」とたしなめるくらいでちょうどいいと思う。そんなことはどうでも良くて私は20年かそれ以上前に同じ文句を本かテレビで見かけそのとき私は未成年だから当事者でない気持ちで眺めていたらいつのまにか私が気をつけなければいけなくなって戸惑っている。たとえば漫画がYouTubeになったとかなら「俺のときは漫画だったけどな」と微笑ましくも思うが20年経って全く同じ内容の批判がまるで最新版のような顔をして登場するとタイムマシンに乗ってきたような浦島太郎にでもなった気になる。


同じような体験に「未来の子供たち」というのがあって政治家とかが「未来の子供たちのために」と言いそれを初めて聞いたとき私は確かに子供だったから「これは私のことだ」と思って心強く思った。ところが大人になってみても相変わらず誰かが「未来の子供たち」と言い結局「未来の子供」なんてどこにもいないことを悟った。格好だけの空虚な言葉なのである。


ひるがえると「漫画ばかり読むな」と叱る親もどこにも存在しない。それは漫画を読むことに後ろめたさをおぼえた人たちが作り出した自分を守る盾のようなものなのである。今日の午前中も「あの人は自分を守るためにあんなことを言う」みたいな話をして世の中脆い人ばかりなのである。