私は子供のころからあまり物を所持することに興味を抱かず例えば私の年代ならスニーカーを多数所持する友達がいて私は正直「履かないものをそんなに集めてどうするんだ」と思っていてそれはつまり私自身は意味のないものは手元に置かない主義だと思っていた。ところが結婚をしてから妻に何度か「本を処分してくれ」と言われて何度目かに私もようやく「本を所持している」ことに気づいた。私からすると所持するとは少し違うんだよなあと思うところもあるが読み終わった本は履かないスニーカーと同じである。処分しろと言われる度に「じゃあそっちが持っているラルクのCDやDVDも処分してくれ」と返していたが「本に比べたらDVDのほうが軽い」と返された。先日は義妹もいてこの人も輪をかけた収集しない人のようで「メルカリで売るといい」なんて提案してきた。メルカリ好きなのである。昔好きだった音楽のCDもみんなメルカリで売ったらしい。もちろん私も過去に何度かはブックオフに売りに行ったこともあるがやはりずっと手元に置きたい本もある。読むことと所持することは少し違う。昔にドラムの先生が「借りたCDと買ったCDは音が違う」旨のことを言っていて確かにそうだと思い義妹にその話をしたらそれは宗教ですかみたいな目で見られた。確かに物を所持するなんてどこか信仰に近いものがある。私は山下澄人の「ぎっちょん」を文學界という雑誌で初めて読みそれは図書館のだったのでその後にすぐに購入しそれから単行本も買ったが雑誌はまだ捨てずにとってある。「ぎっちょん」は雑誌のほうが面白い。私が衝撃を受けた「カニの目線」は確かページの右下のほうにあって単行本だと右下というポジションはない。私はニュアンスに生きている。
ずっと昔にTwitterで「金閣寺を読んでます」と金閣寺の見開きを写真にうつしてアップしている人がいてその金閣寺が本のとちゅうで短編集みたいなおさめられかたをしていたから金閣寺はそれなりに長い話だからこれはどういうことかと思い訊いてみたら「この金閣寺は全集に入ったものです」と教えてくれた。私は「金閣寺もとちゅうから始まるときもあるんだ」と感心をした。中身が重要で中身さえ理解すれば良いと思っている人は私が感心して清々しい気持ちになったことは想像もつかないだろう。