意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

需要

大学時代は経済学部だったので「需」という字をよく書いた気がする。需という字は日常的な何かをあらわす言葉でなかったから当時から書いていて違和感があった。雨かんむりでいちばん馴染みが深いのは何だろう。雷とか電とか。雷は電気を帯びているから似た字にしたのか。とにかく需ではない。私は大学時代はとんだバカ者だったから経済をならって残ったのはこの需くらいである。この字はもう死ぬまで書かないかもしれないと思うと不思議だ。大人になってさらに何かの仕事につくともう似たり寄ったりの字しか記さない。文筆業もそうかもしれない。私は毎日文字を今はつづっているがそれでも似たり寄ったりの言葉が並ぶ。しょせんひとりの思考なんて限られているのだ。三人寄れば文殊の知恵なんて言葉を今朝ひさしぶりに聞いたが私からすると複数の思考は公倍数みたいなものになって歯ぬけの思考である。

大学時代はひとりだったから良かった。学外にはバイト先とか家族とかあったが少なくとも大学にいるときはひとりだったから良かった。大学で私の名前をいえる人は教師も含めて10人に満たなかった。そういえば私の通った大学には教授がいなかった。いたのだろうが誰も教授なんて呼ばなかったので誰が教授なのか知らなかった。教授なんてお話の中だけの存在なのかもしれない。とにかく私は毎日ほとんど言葉を発せず一度だけ知らない女から話しかけられ心がときめいたがそれは単にノートのコピーをとらせてほしいとのお願いだった。私が物静かだったから勉強熱心に見えたのだろう。しかし私は暇つぶしに板書していただけだった。しかし私は快くノートを提供しとても頭の悪そうな女だったからコピー機から帰ってきたら私からノートを借りたことなんて忘れあるいは私の顔の見分けがつかなくなってノートは返ってこないだろうと思ったら返ってきた。たぶん夏だった。203だか303の馬鹿でかい教室であった。