意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

読みふける

「俺の文章大好き」以上にブログを続ける理由が存在しない、という話: 不倒城

このブログには時折以前の記事に星をつける人がいてそうすると私に通知がきてそうすると私は大抵は最近の記事の通知だから最初は
「こんなの最近書いたかなあ」
と思うのだが思い当たらないから昔に書いた物なのだろう 割かし長く続いている 昔に書いたものだとわかるとなんとなくリンクを押して読みに行ってしまう そうするとつい読みふけってしまう 私の書くものは私が読んでもよくわからない箇所があったりするので何度か読み返すと「これはあの出来事を指しているのかな」とマッチする記憶が現れて納得するのだが記憶を持たない第三者が読んだらどういう感情を抱くのだろうか そういう場合は何か違ったものが想起されるのだろうか 私はそういうことのほうが大事だと思う というかそういうこと以外あり得ないと思う


そう思う根拠は文章の不確かさにあって私たちが日頃経験する物事は文字ではないもののほうが圧倒的に多い それを文字にするのだからどうしても手で砂をすくうみたいに砂がこぼれてしまうのである そのこぼれる砂をいかに少なくするのがテクニックみたいにもてはやされる風潮にあるが私はむしろいかに多くすくうかとか高く上げるがみたいなことに重点を置いている というかこぼれる砂に気を取られるとどうしても神経質になって体脂肪率一桁みたいな文章になってしまう そういうストイックなのもいいがやはりそこには人間味が欠ける 


私はとにかく書いているときには書いている対象には無頓着でありたくてそのためには場合によっては事実を曲げる 例えば相手が普通に喋っていても内容がシビアだったら「怒鳴った」みたいな表現のねじ曲げは平気でする 何故かというとそのほうが次の文につなげやすいからである 私は全体の統合性よりも「その次」が上手い具合につながればいいと思っている そして「もういいや」と思ったところで筆を置く もっとたくさん書けるような気がしても書き出すと意外と書けないのである 私は「これでたくさんだ」という感情には正直でいようと思っている たくさんと思っているのに変に結びの文字を加えてもそれは読んでも面白くない 無理にオチをつけると途端に貧相になるのが文章である どんなに独創的でも「よくある何か」に落とし込まれてしまうのである


正月に松潤のドラマがやっていて名前を忘れたが歌舞伎の隠し子だった俳優とのやり取りとか面白くて昨夜はその録画を熱心に見たがやはり30分も見たら「たくさん」と思って席を立ったら家族に「これから犯人がわかるのに」と不思議がられたが犯人がいるということがわかるのならそれはもう誰だっていいじゃないかと思う