意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

苦手な文章

過度に客観的に書かれたというか冷めた目線の文章が苦手と気づいた クールを装っているがその実「俺ってオシャレでしょ?」みたいな自意識が漏れ出てしまうのが鬱陶しい オシャレというか特に笑かし系の記事だと過度な冷静さが自分の考えた笑いに確信を持っている風に見えて萎える 思い切りバカなことをやっているのに大真面目なふりをされると嫌悪すらおぼえる 


冷静な語り口で笑いをとる文章といえばさくらももこ原田宗典を連想するどちらも十代のころさんざん笑った たださくらももこは無理して笑いをとっているかんじがするときがあってやはり萎えるのと原田宗典は家族の話になると途端につまらない 「父親がカーブを投げられて感動した」という話は何となくおぼえている さくらももこは学校で先生に怒られているとき家でお母さんはまさか我が子が先生に怒られているとは思うまいみたいな詩に共感した というか今も書きながらちょっと泣きそうになった 私は子供の頃はほんとうに忘れ物が多くてしょっちゅう先生に怒られた 今思うと親ももう少しフォローしてくれても良い気がしたが自分が親になると子供の忘れ物に気づいても「まあなんとかなるだろう」と思ってしまう 今の子はそんなに怒られないだろうし アニメのドラえもんやカツオで廊下に立たされるシーンで父親が「人権侵害だ!」と憤慨していたが今は本当に問題になってしまう 子供が具合が悪くなると担任が電話をかけてくるくらい大事にされているのである でも担任が子供を全員さん付けで呼ぶのはなんとなくさびしい 私はクラスメートの女子のボスみたいなのが下の名前を呼び捨てで呼んできたらそれがすっかり定着して担任もそうやって呼ぶようになったがちっとも嫌ではなかった 機嫌がいいと「ちゃん付け」で呼ばれたりしたがそういう担任がかわいいとすらかんじた 担任は女でだまし討ちをするようなぶぶもあったが全体としては悪くなかった 私は三組で一組の担任は数年前に当時のクラスメートが集まって定年祝いをやったらしいが私のクラスはまったくなかった 一組は私の元いじめっ子もいたから人でなしの集団だと思っていてそんな定年祝いをするなんてヤクザは人情に厚いみたいな話だなと思った しかし三組も実は開いていて私が呼ばれなかっただけかもしれないがそれでも私はそうだったら嬉しいと思うくらい当時のクラスが好きだった だからと言って今会いたいとか話をしたいと思う人はまったくいないが