意味をあたえる

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兎と亀(2)

兎と亀(1) - 意味をあたえる

授業が終わると、兎は食堂で昼食を済ませ、そのまま図書館へ向かった。今ラウンジへ行けば、確実に稲子に会えるし、仲のいい人間も何人かいるはずだ。だが、兎は昼休みにはサークルに顔を出さないようにしている。人が多すぎる上に、各自の食器でごちゃごちゃしてるからだ。以前何度か顔を出した時は座れないこともあった。うまく座れても、関係ない学生が後ろを通ったりして、その度に椅子の位置をずらしたりしなければならなかった。

盗難防止のゲートをくぐって、すぐ右側の階段から2階へ上がる。何列か続く本棚を抜ければ、閲覧コーナーがある。10人ほど座れる大きなテーブルがいくつかあったが、男のグループがそのうちひとつを占拠し、騒がしかった。仕方がないので、その奥にある、一区画ずつ仕切られた、個人勉強用の席に腰を下ろした。30程ある席は10ほど埋まっていたが、手ぶらなのは兎だけだった。いずれの机にも、教科書やノートが広げられていて、紙面の至る所が赤や黄色の蛍光ペンで強調され、華やかだった。兎は鞄から「夜間飛行」の文庫本を取り出して読み始めた。

兎は経済学部だったが、経済に対する興味は大学に入って3ヶ月で失った。限界費用曲線を書くときに、自分の書いた曲線が歪で気になって仕方なくなってるうちに、講義の内容がまるでわからなくなった。周りを見回してみると、どの生徒のノートも、同じようなグラフが並んでいた。寸分違わず黒板の内容が書き写されていた。誰も授業の内容を理解していないのは明らかだった。

兎はひとりで読書をするのが好きだった。そんな自分がどうして文学部へ進まなかったのかわからなかった。子どもの頃から本を読むことが好きだったし、修学旅行などのイベントがあった時は、誰に見せるわけでもないのに、旅行記を書いたりした。自分がその時に感じた気持ちをどうにか残しておきたかったのである。だが、そう思うくせに、書いたものを読み返すことはしなかった。そのうち、もっと年を取った時に、懐かしさにかられてノートを開くのかもしれないが、その時は書いたことすら忘れてしまっている気がした。
結局兎が文学部へ進まなかったのは、兎の学力に見合った学校が見つからなかったからである。大して受験勉強もしなかったし、真面目に志望校も探さなかった。とりあえず、夏休み明けに3校に絞り、その学校の過去問題集を買って来たが、いちばんよく目を通したのが、最初の「傾向と対策」だった。過去五年分の受験者数と、競争率の表を眺めていると、なぜか合格したような気になって、それ以上勉強しようという気にはなれなかった。そんな調子で試験を突破できるはずもなく、家に送られてくるのは合格者番号の一覧が載った、薄っぺらい電報だけだった。

親からは進学の条件として、浪人だけはするなと言われていた。幼い頃から「金がない」と言われ続けた兎は、言い返す理由を見つけられなかった。兎の父親は高卒で、地元の自動車の部品工場で働いている。とっとと働いて、家に金を入れてくれ、と言い続けていた。そんな親を説得するのは不可能と考えた兎は、すでに春休みに入った高校に赴き、進路指導室で二次募集の願書をもらってきた。聞いたこともない名前の大学だった。電車も、途中で乗り換えなければならず、駅からも20分歩かなければならなかった。

そのため、なんとか合格したものの周りに同郷のものはおらず、ただでさえ内向的な性格の兎はなかなか大学生活に馴染めなかった。入学と同時にゼミに所属したが、周りは地方から出てきた者ばかりで、話の輪に入れなかった。頭の上の長い耳は他人の会話を聞くためだけにピクピクと動いた。たまたまグループで課題をやることになり、3人の男と話をするようになったが、この3人は時間があれば煙草をふかし、吸い殻をところ構わず投げ捨てた。兎はこの光景を見て、ようやく構内いたるところに清掃員がいる理由がわかった。吸い殻をちり取りにかき込む水色の作業服を見かける度に、兎はすぐに大学なんて今すぐ辞めて、清掃員になろうかと思った。


3時間目の授業が終わったあとで、兎はラウンジへ行った。長テーブルは半分ほど埋まり、一番に奥には、やはり部長が座っていた。部長はもしかしたら授業も出ずにずっとそこにいるのかもしれない。サークルの代表はこういう人間でないと務まらないのかもな、と兎は思った。部長の隣には亀がいた。亀は部長の方に体を向け、しきりに何かを話かけている。稲子の姿はなかった。兎はテーブルのいちばん手前に座った。昼休みの時のように、びっしり席が埋まってはいないので、その気になれば人々の間に割り込んで座ることもできたが、兎にはその勇気がなかった。すぐ隣には一学年上の女の先輩が座っていた。この時間帯は、上の学年の者がいることが多い。おそらく昼まで寝ていたのだろう。この後、4時間目の授業を終えた下級生もやってきて、ラウンジの一角は一日のうちでいちばん盛り上がる。兎は、端の席で周りの会話に耳を傾け、たまに誰かが冗談を言うと、声を出して笑った。兎がここで発声したのは、席につく時にした挨拶を除けば、笑い声だけだった。話しているのは、主に一学年上の先輩で、内容は斜め向かいに座っている坪内という男にようやく彼女ができたという話だった。坪内は眼鏡をかけた痩せ型の男で、カーキ色の無地のTシャツに、ジーンズを履いていた。兎からしてみたら、どうしてこのような男に恋人ができるのかがわからなかった。まあ優しいとかそういうことなんだろう。かえってぱっとしない外見の方が、女からしたら浮気の心配がなくて安心なのかもしれない。

坪内は周りに圧力をかけられ、初デート、初キス、初セックスの状況を吐露していた。おまけによく利用するラブホテルも言わされ、そのホテルのポイントカードを財布から出していた。ポイントは3分の1くらいたまっていた。私もそこ行ったことあるけど、あそこ盗撮してるらしいよ、と奥に座っている女が言った。別の誰かが「やばいじゃん、そしたら駅前のビデオ屋に売ってるかもな」と言って、じゃあこれから探しに行くか、と盛り上がった。

坪内と親しくもない兎にしてみれば、全く興味の湧かない話だった。坪内の照れくさそうにしている顔を眺めながら、坪内の彼女は今ここで自分の彼氏が、コンドームの銘柄や好きな体位を暴露しているなんて夢にも思わないだろうと思った。そう考えると気の毒な気がすると共に、安易な笑いに走る、坪内の周りの者たちが残酷な人間に思えた。さらにそう思いながらも、その場に合わせて笑っている自分は卑劣に思えた。兎はふと、鞄から夜間飛行を取り出して続きを読もうかと思った。だが、そんなことをしたらただでさえ孤立気味の自分が、完全に輪から切り離されてしまう。サークル内に小説を読む人間はいない。だいたい日本語も読めるかも怪しい連中なのだ。そうなると二度と話しかけられなくなるだろう。もう少し待てば、下級生たちも来て、場の雰囲気も変わる。それまではもう少し辛抱しなければならない。兎は尿意はなかったが、とりあえずトイレ立つことにした。荷物を置きっぱなしにしておけば、帰ったと思われないし、席も取られないだろう。

兎が階下のトイレで用を足し、ラウンジに戻ると、兎がいた席に亀が座っていた。亀は兎の姿を確認すると「やあ兎さん、こんにちは」とにやにやしながら言ってきた。硬い甲羅を背もたれにぴったり付け、短い足は椅子から浮いていた。兎は仕方なく亀の向かいに座り、亀の前に置いてある自分の荷物を手前に引き寄せた。坪内たちは違う話題に移っていた。

兎と亀は同じ学年で、しかも一年の時は同じゼミだった。ほとんど会話もしたことはなかったが、目立つ外見の為、お互いに存在は知っていた。プレゼンテーションの授業では、資料の配布に手間取り、話のテンポも悪かった。グループディスカッションでは途中までは一切言葉を発せず、最後に全体の流れを整理し、まとめるような意見を言った。それが兎には、他人の意見に便乗して、周りの印象を良くしようとわざとやっているように感じた。

2年の春に兎がサークルに入ると、亀の方から話しかけてくるようになった。兎が履修科目を選んでいると、亀は取りやすい科目をアドバイスしてくれた。亀は一年の時には登録した50単位全てを取っていた。兎はその半分がやっとだった。サークルの他の連中も留年すれすれが殆どで、そんな中で亀は一目置かれていた。テーブルを囲んで話をしていてもあまり冗談を言わない。聞き手回ることが多かった。

そんな亀が唯一饒舌になる話題があった。それが稲子についてだった。亀は稲子に対する恋愛感情を、本人以外には隠さなかった。1年の4月に初めて出会った時から好きになり、その後の進捗状況は逐一周りに報告された。大抵の者は、男女問わず亀のひたむきさに心を打たれ、亀を応援するようになった。やがて、上級生の何人かが稲子と寝て、稲子が誰とでもセックスをする女だとわかると、そのうちの一人が、稲子とやれるように話をつけてやるよ、と提案をした。だが、亀はそれを断り、同時に自分が童貞であることを告白した。