意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

写実

「写真にしか見えない」「命が宿っている」「体温まで感じるよう」人物を描いた油絵がとてもリアルで美しいと衝撃を受ける人々 - Togetter

アートかどうかは置いといて写真をとれば済んでしまいそうなことを絵で再現しようとするのはやはり普通じゃないと思える “写真をとれば“が言うほど容易じゃないことは置いといて「絵でしかできないことをやっています」と言わずに黙々と見たままを再現するのは真っ直ぐである 「絵でしか-」というのはつまり逃げなのだ 「だからデッサンが大事」と言うのもいかにも浅はかだが「絵でしかできないこと」というのはそう簡単にできるはずのものではない それは遠まわしに絵を貶めているのではないか だったらまだ「好きだから書いてます」のほうが邪気がなくてよろしい


ゴッホピカソみたいな絵を書いたとしてもそれを芸術とは言わないだろう だったら写真みたいな絵のほうがまだ芸術なのかもしれない


ところで「絵でしかできないこと」という主張はどこか職業人の「強みを生かす」みたいなのと似ていないか あるいは長所とか およそ長所と呼ばれる物は極めて限定的な範囲で他人より一ミリくらいリードしている程度の物でどうしてそんなものが強調されるのかといえばわずかな利ざやをこすげ落とすみたいに得てそれを反復して強大になる資本主義の精神と相性が良いからだろう それはそれでいいけれど芸術を同じレベルで語るのは無理があるから芸術を語るときにはもっと慎重になったほうが良い ためらわれた言葉にはあるいは希望がある

雨際

ダウンタウン松本人志が何かの番組で雨の降っているところと降っていないところの境界に立てれば体の左半分だけずぶ濡れということにもなるはずだと主張していてしかし雨だってゼロか100かじゃないんだからフェードイン/フェードアウトみたいに徐々に雨粒が増えたり減ったりするのだろう


今日の帰り道に雨が強くなったり弱くなったりするのを見てふと思い出した 車を運転しているときは極力ワイパーを動かしたくないが本当にマックスでゴシゴシやるのは年に何度もない ワイパーの頻度をマックスまであげるとムキになってゴシゴシしているようで見ていて滑稽だ ムキになる人はいつでも滑稽である 


子供の頃隣町の病院まで母の車で通っていて夏などの帰り道に大雨に降られても地元のアスファルトはカラカラに乾いていて母がよく
「こっちは降ってないんだ!」
と驚いていたのが懐かしい 父が夜台所の窓を開けながら
「山のほうは雨か!」
と言いながら涼んでいたのも懐かしい 記憶の夏は暑くはない

歯磨き

子がコーラをこぼして床を拭いているときふと妻はいつもただ拭くだけでは汚れが取れないと洗剤のようなものをかけているなと思い出しその洗剤の場所を訊くと
「歯磨きのところ」
と言われそれが歯ブラシなのか歯磨きチューブなのかはたまたぺってする流しなのか判断が付かなかった そういうときはぜんぶを確認すればいいが妻がちっとも動かないので誘いをかけるために
「ないよォ」
と間延びした声を出したら怒りながらやってきて出してくれた 洗剤というかただの電解水だった 無事拭き終わったがどこから出したのか見ていなかったので適当なところに突っ込んでおいたらいつのまにか片づけられていた 歯ブラシの場所と歯磨きチューブの場所が離れているのが問題だったがこの手の問題は一度慣れると何が問題なのかわからなくなるものだった

ティッシュがロールキャベツのように

皿を洗うときに気づいた その皿はもやしを炒めたのを盛っていてもやしはわが家の人気メニューである しかしみんなが「まさかもやしが?」という風に思っていて自分だけがもやし旨いと思っている風でだからみんなが食べ過ぎてしまう 最初に箸をつけたのは私で家に帰ると盛りつけてあったので他の人が来るのを待たずに食べ始めた わが家はみんな揃って「いただきます」というのがなくて私が箸をつけたとき上の子は風呂に入っていた 私は風呂から出てくるのなんか待っていられなかったし向こうからしても余計なプレッシャーをかんじずに温まることができる 私はもやしを独占することができて半分くらい平らげその後残ったもやしをめぐって姉妹で不穏な空気になった お互いが「お皿取って」と言うと睨みをきかせながら皿を持ち上げるのだ ちなみに皿はミスタードーナツでもらったポンデライオンの形をしていた やがてもやしが食べ尽くされると汁を吸うためにティッシュが放り込まれ下げるときに見たらロールキャベツのように丸まっていた

いよいよ花粉が

いよいよ花粉が飛んできて春がきたとじっかんする 今年の薬はとても強くて眠気を誘発し眠気というかだるい しゃきっとせず年をとったんだとじっかんする 胸やけはまだない だるいくせにくしゃみや鼻水は出る 合わない薬なのだろう 単に体調不良なのかもしれない 数日前の朝三半規管がおかしくなってまっすぐ歩けない日があった 吐き気とかそういうのはなく柱や壁に頭や足をぶつけるくらいだった かなり気合いを入れればなんとか目的地へ行けるようになった だんだんと天地が安定した 会社へ出る頃には普通になった 妻に話すとやたらと原因を知りたがるので黙っていた 原因がはっきりしているなら話してもいいがはっきりしないことを告げると不機嫌になって報告したこっちが悪いみたいになるからそういうときは黙っているのが利口だった 言い出しっぺが損をするみたいな話だ 悪い上司の例として改善案を出した人の仕事を増やしてしまうというのがあるというのと似ている 最初の職場で先輩によく「余計なことを言うと仕事が増えるから黙っているように」と言われた そういうものなのかと当時は思った 今はそれが処世術としては正解だが実践するためには趣味を充実させるか哲学かあるいは悟りをひらくかしないと難しいと思った 誰もがでしゃばりたくなってしまうのが人間である

人生

読んだ 難解なぶぶんもあったが言っていることはシンプルであった 子供に向かって「将来何になりたい?」と訊いたときにまず間違いなく職業名が出てくるのはこういうことだからかと思った 家で家事を専門にする既婚者をわざわざ「専業主婦」と呼ぶのは私たちが何者かになるというのはつまり何かしらに従事するということなのである 私はそういう考え方には子供の頃は違和感があったがもうだいぶ薄れてしまった 幼稚園を卒園するときに将来なりたいものを書きましょうというのがあって私は大工になりたかったから大工の私を書いたがちっとも大工っぽくないので足元に角材を書いた それはただの長方形であったがだいぶ大工らしくなったと私は思った 家を書けばもっとらしくなったのかもしれないが私にはそんな画力はないと諦めた 大工になりたい人はたくさんいたのでこのうちの何人かは本当の大工にはなれないだろうと思った 私はそこまで大工になりたいとは思わなかった 6歳の私が実際にそこまで考えていたのかわからない 自分の子供や甥などを見ていると無邪気なので自信がなくなった 大工と角材は本当だろう


金持ちは実際は質素な暮らしをしているみたいなことを2010年前後に読んでそれも資本主義の精神なのかしらとも思った 資本主義とはこすい奴なのだ 効率化・合理化によって0.1でも増やしましょうよというのがその精神である だから私の中で金持ちが相対化された あとやたらと目標とか「なりたい自分」というのが持ち上げられるのも資本主義精神の余波なのだろう ストイックとは禁欲であり確かに宗教のそれと同じである


川添さんは最初のほうで違和感をもったと書いているが私はすんなり受け入れてしまった

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」感想・書評 - Letter from Kyoto


それから目さんの記事を読んで下記も読んだ

人生相談2題 - 何かのヒント

「人生の救い」というタイトルだったとは今知った Kindleで読んでいたからタイトルは目に入らなかった 記事の中で「凄みがある」とあって確かに希望もなにもないかんじがとても気に入ったが後半につれて柔らかくなってしまった 相談者に若い人が増えたから遠慮するようになってしまったのか編集の人に怒られたのか 「金を稼がなければならない」と書いていたのから本心をどこかへ隠してしまったのかそもそもなかったのであろう 私が好きなのは年寄りの夫婦の夫のほうが最近浮気するようになって世間体が悪いと相談した妻に対し・夫は世間体を気にするあなた(妻)につけ込んで浮気をするのだからあなたが悪いと突き放した回である  


もっとも感心した回は下手くそというか抽象的で何を言っているのかまるでわからない質問に対し「何を言っているのかわからない」と答えつつも抽象的な言い回しになるのはこれが理由ではないかと当てに言っている回である 何を言っているかわからない質問に「わからない」と答える回答者は多くそれは外れたらカッコ悪いから「わからない」で終わるのだがこの人のばあいは終わらなかったので感心した


私は実のところ人生相談の類がとても好きで昔は読売新聞のサイトの「人生案内」をむさぼるように読んでいたこともあるし元プロボクサーの竹中さんが辛口で答えるやつも好きだった 質問者が愚かだと尚楽しいというのは「発言小町」と一緒だろうがそっちはほとんど読んだことがない

サイコパス

二階のゴミ箱に「オケイコパスポート」と書かれた冊子が捨てられているのだがそれの折り曲がり具合と角度で「サイコパス」と見える ゴミ箱は階段をのぼってすぐのところにあるから二階に上がるたびにサイコパスについて考えてしまう


サイコパスサイコパスと連呼していいのか迷う 昔村上春樹のエッセイを読んでいたときは「サイ*パス」と書かれていて意味が分からないから「サイパス」と読んでいた ブランキーの歌の「悪い人たち」も「麻薬」のところが消されていた もっともこちらはベスト盤ではそのままで私は先にベスト盤聴いたので伏せられたことは後から知った こうした「操作」にもレトロなかんじを抱くが先人たちが闘ってくれたおかげなのか