意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

暖かいので走っている人が目についた

今年が特別寒かったのか定かではないが早く春が来てほしいと思い続けていたがいざ気温が生ぬるい段階までくると戸惑う 首の後ろがちくちくするかんじが鬱陶しい 寒いのは確かにイヤだったがヒーターの室温をマックスにするとか暖房の効いた建物や日溜まりにダッシュするとかそのころは生き方に一本筋が通っていた気がする複数の私が一致団結というか要するに迷わなかった 暖かいと考えることが増える 運転する車の中が暑くかんじ窓を開けると寒いみたいな 早く夏になってほしい しかしこの前となりの部署の人が
「来月から建物の周りを掃除しようってなりまして」
と言ってきて私が「じゃああそこもやりましょう」とか色々言ったらうざかったみたいで最終的に私の担当はずいぶん狭くなった それでお昼前にゴミでも拾おうと外に出たらぽかぽか陽気で「ああ嬉しいな」と自然に思えた 自然(気温)に好意を持てるのは極めて健全でありまるで生まれたての子供に戻ったような気になる 実際はそういう気になった実感はないが好意の源泉はそういった気を一瞬でも持ったためと勝手に思うことにする 雑草の根っこがゴボウみたいに太いのも心地よかった 用意したゴミ袋が大きすぎて全然たまらなかったので出口のそばに置くことになったときに「途中セーブね!」と言って各自仕事に戻った

おにぎり2つ

俺は俺を騙すことなく生きてゆく - 母父トニービン

記事の中で「おにぎりを2つ購入するときは同じ銘柄でも問題ないことに気づいた」とあって私もそれを読んで盲点だったと思った 複数の銘柄がある商品を複数買う場合私や違う銘柄派は無意識のうちにバランスをとろうとしてしまう つまり梅梅と買ったら在庫が鮭やおかかばかりになってしまい後の人が不便するということを考えてしまうのだ 躊躇なく梅梅と買える人はかなり豪儀な人と言える そう分析すると「そんなこと意識したことがなかった」と返す梅梅派がいるがそれは大抵はただの自意識過剰なのだ


ところでこのようなことを書くと漫画のカイジの「限定ジャンケン」を思い出しバランス派と呼ばれるグーチョキパーをバランスよく出す人がカイジに手玉をとられるという話だ 直近とその前がグーチョキだったから次はパーだろうという具合だ いかにも子供じみた理論だがカイジやバランス派は借金を背負っているから大マジなのである たしかに子供の頃グーを出したすぐ後にまたグーを出す人に初めて遭ったときかなり異様なかんじがしたのをおぼえている 大人になって今に至るまで幾多のじゃんけんの中でグーやチョキの連続は何度も出したがそれはグーを連続しているよりもかつてそれに遭遇した異様なかんじをコピー・後追いしているというのに近い 3回4回とつづけて同じのを出す人は正気じゃないように思える 

足の人差し指

足の親指よりも人差し指のほうが長い人のタイプをギリシャ型と言い親指のほうが長い人より人数は少ない ということを妻から聞いた 私が長い 私は普通人差し指のほうが長いのだと思っていて例えば世の履き物を見ても内側・あるいは外側のほうが中よりも出ている靴というのがないというのが即興で考えた根拠だ しかし長さの比がさまざまということは知っていて私は「親指よりも人差し指のほうが長いというのは親を越えるという意味だ」なんて言っていた とは言うものの越えた実感は今のところない 背の高さで言えば小学5年のときにはすでに越していて越えたと言うにはあまりに手応えがなかった 父の指の長さは知らないが父はその父を越えたと思ってそうなかんじがする 祖父は酒に弱く飲み屋でつぶれた祖父を父がリアカーで迎えに行ったという話を聞いたことがありリアカーで寝ゲロする親を見たら「大したことないな」と思う気がする 寝ゲロは私の想像だが父が寝ゲロをしたところは見たことがない 私は昔寝ゲロしたことはあり子供に直接見られたことはないが妻が言いふらしたからやはり大したことないと思われてそうだ


人差し指が長いと階段を上るときにひっかけることがありちょうどタンスの角に足の小指をぶつけるのと同じことなのだが私の場合人差し指をひっかけることのほうがずっと多い 人の体を島に見立てると人差し指は最南端である

大家族の自転車

会社でフレックスが始まって朝遅めに家を出るようになった 道はいくらか空いている 小柄な女性が歩道で並んで走っていると思ったらひとりは視覚障害者でひとりはその伴走者だった  ゼッケンで判断しただけで車から見てもわからない 2人は橋へ向かう 朝日はもうまぶしくない


自転車を満載したトラックが前を走っていてそれを見て「大家族の自転車だ」と思った 赤とか黒とかがあった そんなのは嘘でこれらはこれから解体され壊されるのだ そう思うと切なかった しかし切ないという気持ちは条件反射の気がした 人はよく「感動した」とか言うけれどそれは「こういうときは感動しましょう」という刷り込みが働いたせいでもちろん純粋な「感動」もあるだろうがそんなの人生で数度しかない 優香というタレントが出てきたときに「癒し系」と言われていたが人の顔を見て美しいとかならわかるが癒されるというのはどうにも理解できなくて困惑したがたぶんみんなそうで一部の人が「この顔を癒し系とします」とごり押ししたから世の中になじんだだけの話なのだ

RPG

3DSゼノブレイドというゲームをやっているが(RPG)仲間が増えてきていちいち装備を整えるのが鬱陶しい 昔は攻撃力・守備力くらいしか影響なかったのに今は重量による素早さや魔法に対する防御や敵から見つかりにくいとかあって面倒くさい さらには物によってジェムのスロットがあってHPだとか筋力だとか眠くならないとか効力がそれぞれあってさらにそれらのランクがあるから気が狂いそうになる 何よりいらない武器防具がどんどんたまるのが我慢ならない 敵とか落とすなと思う どうしてゲームの中でまで整理整頓をしなければならないのか 


私は装備にかんしては効果を最大にしないと気が済まない性格で上記のようにパラメーターが複雑にからまり合うと時間ばかり浪費していつまでも出撃できない かつてフロントミッションというゲームがあったがいくらも出撃しないうちに高校のクラスメートに借りパクされた ダンジョンも隅々まで行かないと気が済まない 開けてない宝箱があると気になって話に入れない しかし根本的に凝る性格ではないから途中で飽きて投げてしまうのである 画面酔いもしやすい だから今回ゼノブレイドをやるにあたり深入りしないように自分に言い聞かせて始めることにした 幸いに比較的新しいゲームなので飽きさせない親切な設計となっておりこれから向かう場所も赤いビックリマークで指し示してくれる 私のやっていたころは西だの南だのと町の中の限られた人しか言ってくれなかったから迷いやすかった 「○○が見えたらそこを曲がって」みたいな複雑な説明はおぼえられなくて難儀した ドラクエ6では町の人の会話をおぼえるコマンドがあったがだったら常に画面に矢印を示せば良かったのだ ドラクエ3なんかだとどの武器を誰が装備できるかというのもはっきりしておらず買ってから装備できずに愕然とした思い出もある


今日は珍しく道に迷ってしまいアイテムもなかなか見つからないのでネットで調べてゲットした 根気よくやるつもりはないのである そういえばネットがないころはすぐに攻略本を買っていた 良くできた攻略本だとゲームするより本を読むほうがずっとワクワクした 書かれた攻略法通りにプレイをするのだがどうしてそれが楽しいのか自分でも不思議なのだが私はゲームにかんしては考えたり悩んだりするのがとても苦手なのだ 


それから町へ行って武器防具を買い揃えたが一番手に新しい防具を買った際にそれまでつけていたものを二番手三番手に譲るいわゆる「おさがり」というのをやって所帯じみていてイヤだなあと思った

大江千里

ドラえもんを見ていたら今度の映画の予告が流れてドラえもんらの線が細くて私が子供時分に見ていたドラえもんに近かった ここのところのドラえもんは線が太いなあと思っていたところだった その新しいドラえもんの映画の主題歌は星野源星野源のうたをバックにドラえもんらが喋ったりするのだが星野源の歌声もしゃべり声っぽくてあと関係ないけど星野源の歌って大江千里っぽいなと思った


大江千里は今はジャズピアニストであるとたまに耳にするが大江千里ほどジャズという言葉が似合う人もいないと思う 大江千里はミスタージャズだと言ってもいい それは何故かというと大江千里はジャズピアニストになりましたという声は耳にするのにその演奏や音楽をまったく耳にしないからである 耳にしなくなった音楽は普通歌手の名前もセットに消えていくのに大江千里は忘れた頃に「今はジャズピアニスト」という情報がもたらされる


私はジャズという言葉の浅はかなかんじが嫌だ 「小説」という言葉も浅はかだが「文学」よりかはましな気がする 逆かも とにかくそれは外からの言葉であり 外というのは外野であり決して内野にはならないという決意の現れであり外野は徒党を組んで内野を拒絶する 外からしか見ないくせに「わからない」なんて恥ずかしげもなく口にする


内野外野と言ったので野球に例えるが野球中継中に実況や解説や監督や選手が「野球選手」なんて言うだろうか ジャズミュージシャンは何故「ミュージシャン」と呼ばれないのか

姉妹

ごめんね - 写真 / イラストほか

上記の記事の姉妹が素敵だったので私の家も子供が姉妹なのでみんなに見せてあげたら
「死ねなんて物騒よ」
と言いつつ私が妹のほうに
「紙ひこうきつくったら?」
提案すると広告を折り始めた 私は新聞ばかり読まないが義父母が読むのである 広告の端のほうに何か書き込んでテーブルの向かいに座る姉に投げると姉は中身も見ずにまるで黒山羊さんの歌みたいにその辺にほっぽってしまい妹はわんわんと泣き出した もう四年生なのである 学校ではクラス委員もやっているくせに家に帰ると妹の役を全うしようとする 道化を演じて私は家族の潤滑油よとでも言いたいのだろうか 家族というのは不思議で私も家では父親のような顔をして会社ではふざけたことばかり言っている 会社でふざけるときかつての私の父も仕事ではこんなだったのだろうかとか思ってしまう 娘が二人いるという定年間近の人がとんでもなく仕事のできない人で一緒にいると「子供はお父さんが周りに「使えねえやつ」と思われているなんて夢にも思わないだろうとか考えて切なくなってしまう