意味をあたえる

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ザリガニくんが最終回を迎えた

今朝のシャキーンは司会者の神妙な面もちから始まり、いきなり、「ザリガニくん」が最終回であることを告げられた。私はとても驚いた。見終わった後、すぐに内容をブログに書こうと思ったが、ネモちゃんをゴミ捨て場まで送って帰ると、妻が録画した有吉とマツコの番組を見ており、私もうっかり見てしまったので、何も書けずに出勤時間となってしまった。有吉が、
「一般人が、ダウンタウンの松本を目指すのはおこがましい」
というようなことを言っていた。私は高校生の頃、お台場で占いというか、性格診断みたいな機械をやったときには、ダウンタウン松本と、同じタイプであると診断されたことがある。同じグループには、レオナルドダヴィンチもいた。だから、有吉のこの発言は心外であった。

外はとても風が強く、みんな「寒い、寒い」と言っていたが、先々週くらいに比べれば全然暖かいのに、「寒い」というのは少し変ではないか。何に対してかわからないが、「ちょっとそれ、失礼じゃないか?」という感じである。

最終回のザリガニくんも、通常通り、女を振る場面から始まる。お台場とか横浜のような、海辺の公園のような場所だった。柵に肘をのせながら、
「世界中の白鳥を助けたいんだ」
と別れの理由を説明するザリガニくん。赤いベレー帽をかぶった女は、
「ザリガニのくせに白鳥だなんて!」
とザリガニくんに平手を食らわせ、去っていく。その際にザリガニくんの耳当てが吹っ飛ぶ。耳当ての耳の部分には、ザリガニの縫いぐるみがくっついている。耳当てをしながら別れを切り出すなんて、さすがザリガニくんと言ったところか。地面に落ちたザリガニが、赤く点滅している。

三年後――

世界的に有名なバレリーナとなったザリガニくんは、久しぶりに日本へと帰ってくる。女性ファンに取り囲まれながら、手にはホットドッグを持ち、階段をゆっくりと降りていくザリガニくん。バック・トゥ・ザ・フューチャーの、時計台のような場所だ。と、広場のほうに目をやると、なんと三年前に振った、あの、赤いベレー帽の女が歩いているではないか。ザリガニくんは手に持っていたホットドッグを取り巻きの女に手渡し、ベレー帽めがけて突っ走る。ホットドッグは男性器の象徴だろうか。名前を呼ばれ、振り向く女。間違いなくあの女だ。私は名前を忘れたから「女」としか書けない。私はてっきりまったくの別人が振り向くのかと思った。そういうドラマが多すぎるからである。女はザリガニくんに対し、
「あなたのことなど知らない」
と言って去っていく。膝から崩れるザリガニくん......。

Fin.

私は実際に振り返った女を見ても、それがかつての女とわからなかった。それは三年も経つに、ベレー帽の色かたちが、全く変わっていないからではないか、と推測した。三年も経てば、それなりにへたったり、それか新しいものに買い換えるだろう。買い換えれば、やはり前と全く同じ物、というわけにはいかないだろう。何もかもが同じだから、別人に見えた。

ところで、「ザリガニくん」を見たことのある人ならばご存知だろうが、これは、記憶をテーマにしたドラマである。ドラマの最後には必ず、
「今見た内容は、すべて忘れてください」
とアナウンスされ、番組の最後には、忘れたかどうかを試すクイズまで用意されているのである。忘れることを要求されるドラマの中で、ついにその主人公の存在すら忘れ去られてしまうのである。赤いベレー帽の女は、今まで捨てられた女たちの怨みの集合体だろうか。なんとも皮肉な話である。

ところで当ブログでは、ザリガニくんを二度か三度取り上げた。「忘れろ」と言われながら、内容をできるだけ正確に記述するよう心がけてきた。そのことに、いくらか矛盾を感じていた。そこで、ドラマ最終回にともない、改めて忘れるとはなんなのか、について考えてみた。

私の抱えた「矛盾」を解消するためには、忘れるというこについての新たな解釈、あるいは拡張が必要だからだ。私は何行か前で、「正確に記述する」と書いたが、あれはウソである。本当は自分の中で話を通過させ、ある変換を行った。それは印象操作だ。私の書いたものが想定通りの働きをすれば、印象は変わる。

伝言ゲームのようなものである、とふと思った。伝言ゲームは、バスの中で行われる。とあるストーリーが、一番後ろの席の子のところまでいくと、最初とは全然違うことが、このゲームの醍醐味である。この醍醐味は、人の記憶の不確かさに寄りかかっている。

ここまで書いたら、なんとなく集中力が切れてしまったので、記事はここで終わる。結論は、忘れるとは、人の中を通過するということである、ということである。

※ザリガニくんについて書いたほかの記事について興味のある人は、ブログを遡ればありますので、どうぞ。