意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

去年の記事

A氏が一年以上前の私の記事に星をつけ、それが私にも知らされ、最初はもっと最近のものなのかと思っていたが違った。私は気になったから読み返したのである。初期のあまり読まれていないものだったから、もっと違った風なのかと思ったら、案外今の雰囲気と変わらなかった。私は去年の5月にブログを始めたが、そのときはもっと張り切っていたから内容はつまらないと思っていたが、読み返してみると案外面白い。自分の書いたものや関わったものを面白いというのは、ナルシストだとか向上心がないとかそういう評価を下す風潮があるが、自分が面白いと思った行為は、後から見ても面白いのが普通だと思う。そういえば私は昔バンドを組んでいたとき、すごく気持ち良くライブができたときがあって、終わった後に自分の中で
「今日はまだまだだ。今日を最低ラインにしてここからまたがんばろう」
と思い、またメンバーにもそう口にしてメンバーは私も含めて素朴な人たちだったからそうやって気を引き締めたが、それは間違っていた。どうして間違っていたのかについては、理由はないが、10年以上前の記憶が後悔として刻まれているのだから、間違っている。強いて言えば、自己評価を下げることは、ひとつの防衛本能であり甘えである。しかしそれだけじゃない気もするから、「理由はない」と先に置いた。

私は一年前のその記事を読んだらなんとなくカフカっぽいな、とも思った。私はカフカはそこまで面白いとは思っていなかったが、だいたいみんな面白いと言うからそのうち面白さがわかりそうなものだが、みんなが面白いというものをきちんと評価するのは難しい。面白さは難しさを乗り越えた向こうにあるから、だから私が面白くないというのは確実な私の感情であるのだが、しかし自分の書いたものを読んでそこからカフカを連想するなら、それなりに面白さは感じているらしい。カフカは「城」の中でむかつく男二人組が出てくるが、それに私はスーパーマリオのマリオとルイージを当てはめて、そういうのが楽しい。

以下、その一年前の内容をかいつまんで書くが、あるとき私は黒い点を発見し、やがてそれが大きめの蚊だと気づく、つぶせないと高をくくりながら手を叩くと思いの外蚊の動きが鈍くてとらえられ、私はそこから季節の移ろいを感じる。春や秋は大きめの蚊が多い。血まみれになった掌を眺めながら、
「奇妙だ」
と私は思う。

それから私の見た夢の話になり、この夢については私はまだおぼえていたので、これは創作ではなかった。私は池袋のサンシャインの駐車場に車を停めるのだが、一駅行くと祖母の家があるのでそこまで歩き、気を抜いたら幾日も経過して車が出せなくなった。それを書く間に私の思い出やらを経由するのだが、読みながらこのまま夢が覚めずに記事が終われば面白いな、と思ったら覚めなかったので満足した。

私はたまに自分の見た夢の話をブログに書くことがあるが、これは他に書くことが思いつかないときに書くことが多い。過去の話についてもおんなじで、前述の記事についてもカルタ大会に参加した模様が詳細に書かれていたので私は驚いた。詳細、といってもそれは主観的な詳細で分量としては少ない。しかし私の中では「こんなこと書くわけない」と思っていた内容だから、書かれなかった部分のボリュームが大きい。おそらく、読んでもらえばそういう気配は感じると思う。私は今、毎日これを書いている。毎日書くメリットは、
「これはどうしても書きたくない・書けない」
という内容でも、意外とあっさり書けてしまうことだ、ということに気づいた。

話は全然違うが私は昔は読んだ人とイメージを共有できるような文章を目指しており、そういう言葉選びを心がけたが、今はむしろ違ったことを感じさせたいとか思う。そういうほうが、自分の書く内容なんて、別になんでもいいや、と思えて楽だ。