意味をあたえる

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「三枚のお札」感想

さっき昨日の「日本昔話」でやっていた「三枚のお札」を見た。録画であった。「日本昔話」はわたしが子供の頃にもやっていたが、それとは違うものだった。しかしよく似ているから真似したのだろう。そこではやたらと勾配のきつい山が登場するのであった。「日本昔話」は、どことなく「世にも奇妙な物語」に似ている。「世にも奇妙な物語」も、わたしが小学生のころに放送していた。妻は、その後の「if」が面白かった、と言った。私が「if」で覚えているのは、花火を横から見るか下から見るか、というストーリーでそれで行き先によってそこで待っている人物が違っていて主人公の運命もずいぶん異なってくる、という話だった。つまり花火自体は関係なかった。

世にも奇妙な物語」で印象に残っているのは、ほとんど忘れたが女が運転している車の前にトレーラーが走っていて、それがカタカナの「エ」の字の形をした鉄柱を積んでおりそれに追突したのか、事故を起こして鉄柱が女のフロントガラスを突き破り、女の頭も額に「エ」の形をつけながら突き破るというシーンはインパクトがありおぼえている。鉄柱は元からトレーラーから先がはみ出ていて、そういう場合は後続の車にそのことを知らせるために赤い布を下げなければならず、私はそれ以後、トラックなどの荷物にそれが下げられているのをみる度に、「ああ、世にも......」と思ってしまう。ただし、下がっていたのは布ではなく、電球だった気もする。あと、女は電話ボックスにいた気もする。わたしの記憶が混濁している。

「三枚のお札」で私がもっとも好きなのは、便所にお札を貼って、それが小僧の身代わりとなって山姥の問いかけに対して返事をするシーンである。好きというか、わたしはどういうからくりでお札がしゃべり出すのか理解に苦しんだのをおぼえている。わたしは当時はまだ子供だったのです。だけれども、子供のわたしは、山姥をどこまでだまし通せるのか、どのくらいの距離を稼げるのか、はらはらしながら話を聞いていた。

最初のお札はトイレで使用し、それでは残り二枚はどうしたのかと言えば、二枚目には砂の山を出し、三枚目は大きな川を出してもらい、しかし山姥はめげずに小僧を追い続けた。私はそれを今日見ながら、このお札というのは、小僧を助けようとしているわけではなく、ただ単に小僧の命令を履行しているだけに過ぎない、というのを強く感じた。つまり私たちにとっての機械とか、コンピューターのようなものであった。わたしたちは、わたしたち以外が意志を持つことに、昔から胡散臭いものを感じていたのかもしれない。そして山姥は死んだ。

それからわたしとシキミはすることがなかったので、他の話も見ていたら浦島太郎もあって、あらためて見ると、やはり「開けてはいけない箱」を渡すなんて、どう考えてもおかしい。なんだか英文のようだ。わたしは英語が苦手だからうまい例が出せないが、英文は「だれも来なかった」みたいな言い回しを「0人がやってきた」みたいな言い方をするから、わたしはそういうことが言いたい。だから「開けてはいけない箱を渡す」とは「なにも渡さなかった」と訳すのが本当な気がするが、箱は現実に存在する。まるでデビット・リンチのようである。わたしはリンチ映画をそこまで熱心に見ないから、正確に言うと、リンチの映画を熱心に見た保坂和志の文章のイメージである。

さらに別の話では寝ていた男の頭に木が生えてきて、最終的に男の頭は花畑になるが、どうにも池になった頃から怪しくて、それは池でドジョウが穫れるようになると人が集まってきて釣りなんかを始めるのだが、当の頭が池の男が釣り上げられたりする。そして最後に花畑になるとナレーターが、
「天気のいい日は、男は頭上の花畑で横になったりしました」
などと平然と言ってのけ、わたしは混乱する。自分の頭上で寝るなんて、取り外しの利く頭ならともかく、しかし昔話だから頭が取れるなんておかしいし、そうすると足の裏から裏がえってめくれて頭上に行くのかな、とか思うと気持ち悪い。