意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

要約されてしまうようなものは書きたくない

よく文庫本だと、背表紙に話の内容が載ってたりしますが、それを読んでから中身を読む、あるいは中身を読み終わってから背表紙の短い文章を読むと、ふざけてんのかと思うくらい中身の内容と異なっていて、私はそれが要約というものの限界なのではないかと思う。あるいは売り手の思惑が、いちばん大事な箇所を改変してしまうというか。

私は難しい本を読むのが好きで、どうしてなのかというと、難しいとわからないからであり、わからないと読んだ後に、
「理解できない箇所があった。また読み返そう」
と思えるところが好きな所以です。しかし難しすぎると
「もういいやー」
となってしまう。ちょうど良かったのはウンベルト・エーコの「薔薇の名前」で、私が
「わからなかった。また読もう」
とすっきり思えたのがこの小説だった。しかし、ちっとも読み返すことはない。自分の人生の残り時間を考えると、もう読めないんじゃないかと思う。

薔薇の名前」を読んだのは確か保坂和志を読むようになる前の話で、私は保坂和志を読むようになってから難しい内容を読んだときの心境が少し変わり、最近は
「よくわからなかった。私は尊い
と思うようになった。「尊い」は今書きながら思いついた言い回しだが、尊いとは、そこにオリジナリティの可能性が発生したとか、自由とか、そういうニュアンスだ。

保坂和志の著書を何冊か読むと、著者が記憶に基づいて小説なり本の内容を紹介者するのだが、そこで記憶が曖昧になると、
「なんとかは○○だったが、違うかもしれないが、同じことだ」
という言い回しが必ず出てくる。私は二度三度読んだ。今読んでいる「遠い触覚」という本でもやはり記憶で何かを語るのだが、後から原稿を読んだ編集者がそれについて調べて正しいとか間違っているとか判定をして、そのことまで書いている。「同じことだ」とはどういうことなのかというと、勘違いや忘却にも意味があるということだ。

同じく保坂和志の「小説の自由」という本の文庫本を私は所有しているが、そこにひとつだけ付箋がつけられていて、なんだろうと思って開くと、
「人間には実は経験したことのあらゆる記憶が蓄積されていて、忘れる、というのは消えてしまうのではなく、奥に入り込んで出てこないだけなのである」
みたいなことが書いてあった。つまり記憶とは取捨選択の結果であり、私たちは能動的に忘、れ、て、いる。

私は「表現」においては主張とは足枷だと思っていて、主張とは、俗に言う「言いたいこと」である。よく文章の後半にくると、
「結局何が言いたいのかというと」
という言い回しが出てくることがあるが、私はそれは自己制御できない自己の否定というか、変わってしまうことを恐れた結果、思考に蓋をしているのではないか、と思う。