意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

アドラーと深沢七郎は同じことを言っている

そのアザラシはもう潜りもせず泳ぎもしないから適度に湿って動かないそこは苔にとってはとてもよい環境なのだろう。動きもしないから見物する人はみすごしていく。派手に泳ぎ回る大きなトドに見物客は群がっていた。トドを眺めるあいつらより誰も見もしないこいつの方がずっと偉いとぼくは思った。そこがぼくはまだまだなのだ。そうして一人悦に入っているのだ。深沢七郎は違う。人間など虫やアザラシに比べたらチンケなものだなどといってはいない。そんなつまらないことはいわない。ちゃんと匹敵しているといっている。虫にもアザラシにもどの人間も匹敵しているといっている。いっているとぼくは思っている。

引用は私が何度かブログで取り上げている深沢七郎「人間滅亡的人生案内(河出文庫)」の、山下澄人によるあとがきからである。書き写して驚いたが、文中に点が一回も出てこなかった。点や丸がないと、読みづらいという印象を私は文章に抱いていたが、そんなことは嘘であった。

最近アドラー「嫌われる勇気」を読んでいて、人間は虫や宇宙と同じなのですよ、という箇所があって私は必然と深沢七郎のことを思い出した。それで上の文章について、「人間>虫」は確かにおこがましいけれど、「人間<虫」もやはり同じだ、と述べられていて以前はあまり考えなかったけれど改めて考えると人間が虫よりも小さいという考えも結局は人間は特別であるという思考から抜け出せないから小さいということなのである。アドラー深沢七郎は同じだと言っている。私も自分のブログのかなり前の記事で、そのうち生物と非生物の境界もなくなるみたいなことを書いた。それはアドラー深沢七郎も読む前に考えたことだから、私がすごいということになってしまうのかもしれないが、生きるとか死ぬとか考えていると遅かれ早かれそういう境地に行くのではないか。もちろん私はたぶん、境地まではそこまで行っていない。言葉は楽ちんなのである。

だからアドラー読んで感じるぶぶんがあった人は、深沢七郎も読むことをオススメします。「嫌われる勇気」のほうはおそらく架空の、絵に描いた餅みたいな自意識に苛まれる「青年」が「私の餅をぺったんぺったんしてください」とやってくるわけで、兄は親の期待を受けたが自分は、みたいな下りで私はシラケてしまったが、「人間滅亡的人生案内」は、正真正銘素人の相談だから、いくらかリアルではある。しかし山下澄人はあとがきで、相談者の文章は読むに耐えないと言っていて、それは私も同意するが、それは編集者の手が入ったからだと分析している。でなければ、素人の文章がこんなにつまらないはずはない、とのことだ。確かに整った文章はつまらない。

私も最近三年生になったシカ菜がこの前運動会の作文を書いていて読んだら、ずいぶんつまらない文を書くようになったと思った。どこで覚えたのか、最初に
「運動会では、嬉しいことが三つありました」
なんて書いてありそんな書き方をされると、どうあがいても三つしかないみたいでがっかりする。ところが二つ目を書き終わった時点でシカ菜は
「長すぎる。私の作文は長いことがネックだ」
と言い出し、私は途端に目を輝かせて
「それなら二つ目で終わらせればいい!」
と提案し、三つを宣言しながら二つで尻切れトンボになったら読む側の肩すかしを食った表情が浮かんでさも愉快だったが却下された。それなら、
「三つ目は赤が優勝したことです」
みたく、思い切りバランス悪く、素っ気なく書いちゃえばいいと提案したが、やはり却下された。