意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

機械の文章

インベスターZを読んで明治維新に興味がわいたので上記の本を読んだ。そうしたら百姓という言葉が何度も出てくるのだが「百姓(農民とはかぎらない)」といちいち括弧の注釈が最後までしてあってしつこいとかんじた。かなり早い段階で「百姓というのは農業だけをやる人を指すんじゃないんですよ」と説明がなされそのときはなるほどと思いその直後の文章で「百姓(農民とはかぎらない)」とあったのでこれは読む前の認識だとミスリードとなるから強調しているんだなと思ったがそれが最後まで続いたのでどれだけ読者を信用していないんだと思った。


信用云々は置いといてこんなにしつこい文章は初めてだったので内容を追いながらもそのことを考えずにはいられなかった。私が思うにこれは百姓と打てば括弧書きが変換ででるように辞書登録されたのではないか。そうじゃなければ書いているほうが嫌になってしまう。間とか呼吸とかそういうものが現代人に通じるのかはわからないがとにかく私たちは同じことの繰り返しに弱い。ちょっとした変化がないとつらくなってしまう。反対にコンピューターのプログラムは機械に読ますのだから同じ主語を使い続けなければ支障をきたす。プログラムの学習は外国語のそれと近いが肝心のところで区別しないとどちらからしても寸足らずになってしまう。


そう考えると人間向けの文章に効率だとか生産性を求めても逆効果な気がする。私は昨年は効率化の本だとかも読んだがそこに書かれた文体も実は効率的ではなかったのかもしれない。私が読んでいて意味不明なのが章ごとにまとめがある本でまとめられるならまとめだけでいいじゃないですかと言いたくなる。私はそういうものはいつも読み飛ばしてしまうがちゃんと読む人もいるのだろう。私はそういえば自分が書くことにおいては「何が言いたいのかというと」みたいなのは極力なしにしている。言いたいことはないんだと自分に言い聞かせている。


例えばインタビュー記事などで(以外、○○とする)とやたらと長い名前の人とかだと省略させられたりするがあれこそ紙面のスペースの確保で効率化の結果と捉えられるがそれにしてもやはり逆でああしないと読む方が苦痛にかんじるからそうするのではないか。以前読んだ「プルーストイカ」という本に私たちは黙読するときも頭の中で一度音声にしてから認識するみたいなのがあってそれはつまり文字という記号は比較的最近にできたから脳には文字をそのまま認識する機能がないから音声で補うみたいな話があってだからやたら長い名前が連続して目に入ると苦痛なのである。苦痛なのは耳であり口なのである。


ところで上記のプルーストイカのエピソードだが私は実のところ本の中ではなくこの本を紹介していたブログで読んだ記憶の方が強い。ある種の書評は本そのものの面白さを超えてしまうことがありそれがいいことなのか悪いことなのかわからない。しかしもっと言えば脳が文字を認識できないことについて「プルーストイカ」の中にはなかった気がしもしかしたら別の本で読んだことと混同されたのではないか。何にせよ書評でかんじることと本でかんじることは一致しない。